バターナイフは壁を指し示してくれた

takahiro suganuma bird

意味のないことで人のことを羨ましいと思うことが子供の頃は結構あった。今はそういうことはあんまりないけど、子供の頃は多かったと思う。

今でもたまに思い出すのが、小学校低学年ぐらいの時だったと思うが、近所の友達の子がうちの家に遊びにきて食パンを食べる状況があった(どうしてそういう状況だったのかは覚えてない)。食パンにマーガリン(バターじゃなく)を塗る時に、うちのやり方では一回バターナイフの表面に取ってパンに乗っけてから、バターナイフの裏面で伸ばすというやり方だった。でもその子はパンにマーガリンを塗る時にバターナイフの表面は使わず、裏面にマーガリンを取り、そのままパンに伸ばしていった。

それを見てなぜかカッコいいと思った。バターナイフの表面を使わなかっただけなのに、なんだかスマートに見えた。どうでもいいようなことだけど、他人のやり方がカッコよく思えることがある。あれはいったいなんだったんだろう。たぶん子供にはよくあることなんだろう。

ただ、子供の頃の些細なことに思えることでも、意外と大人になって尾を引いていたりすることがある気がする。

もうひとつ思い出したこと。ヘリコプターの音を口真似をする時は、だいたい「バラバラバラバラ」とかだろうけど、「バンダンボンドンバンダンボンドン」と表現する子がいた。独創的でカッコよく思えた。いいなぁと思った。これ、ずっと誰かに言いたかったんだけど、どういう話の流れで喋っていいかわからないな。

人のちょっとした言動を羨ましいと思うことがあった。その人になりたいと思うことがあった。そして自分はその人になれないんだと思うことが残念に思えた。ただ、それが強い嫉妬のようなものにはならなかったように思う。自分が自分でしかないことを、ただ残念に思っていたような気がする。まあ、今思えばそう感じていたと思うだけで、子供の頃はそこまではっきりと意識していなかったとは思うけど。

自分が自分であることを受けいれるとはなんだろう。おそらくそういうことは人を羨ましがったりあこがれたりすることと無関係ではないと思うが、他人を羨やましいと思う人が、自分を受け入られていないとも言い切れない気がする。そして、まるっきり疑いなく自分を受け入れられる人なんかきっとどこにもいないだろう。

あこがれは向上心につながる。ただ、他人の芝生ばかり青く見えていると停滞してしまう。僕はきっと他人の芝生が青く見える方の人間だった。青く見えるあまり、自分の持っていないものばかり意識してしまっていたのだ。僕は自分の持っているものを見るべきだった。僕はバターナイフの表と裏を使える、というものをもっていたのだ。

ふと思うこと、感じるものが自分の傾向につながっていたりする。自分はなぜそう思うんだろうと考えると、目の前に立ちはだかっていた壁の正体も意外とわかってきたりするものだ。バターナイフは長年の年月を経て、自分にとっての壁の存在を指し示してくれた。

そう考えると、些細なことでも何かしら意味を持っていると思える。日常の細部に気をつけていきたいと思えてくる。自分はなぜそう思ったり感じたりするんだろうと考えると、自分の弱点もわかってくる。わかってくることと、克服できることはまた別の話だけれど。

普段はあまり意識しないことかもしれないけど、自分が何を持っているかに気がつけるかどうかは生きていく上でとても大きなことだと思う。自分でも思ってもいないものを持っていることもあるし、持っていることにうすうす気づいていても自分ではっきりとは意識していないものもある。

自分が何を持っているか、持っていないかを意識することは、自分の可能性を広げるものでもあるし、可能性を限定するものでもある。そして人生は意外と限定的だ。だからこそ自分の限定的な可能性に対してぐらい、限りない可能性を感じてもいいんじゃないだろうか。

バターナイフの話から、なんだか大げさな話になってしまった。