ファミコンってもうレトロなのか

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気がついていれば年月が経っている。最近特にだけど、時代が変わったなと思うことが多くなって来た。

もう十数年前になるが、たしかネットの記事か何かだったと思うけど、ファミコンがレトロなものとして紹介されていて、そうかファミコンってもうレトロなのかとびっくりしたことを覚えている。

子どものころ、ファミコンは「最近の子ども」の代名詞のようなイメージで、最近の子どもは外で遊ばないでファミコンばっかりやっているので良くない、ということをよく言われていた。

だから、自分の中で「最近」のイメージがついていたファミコンがレトロになってしまったということに結構びっくりした。時代は流れていくんだなと実感した瞬間だった。

自分も例に漏れず、子どものころはファミコンをものすごくやった。時々思うんだけど、そのファミコン経験が大人になってからのパソコン関係の扱いに結構役立ってるような気もする。今の子どもたちには到底適わないだろうけど。

20歳過ぎぐらいで一人暮らしを初めて、ゲームをほとんどやらなくなった。音楽活動したり本を読んだり、興味の向く方向が違ってきたからなのかもしれない。最後に買ったゲーム機は初期のプレイステーションである。それも押し入れにしまったまま、引っ越しを重ねてどこにいったか覚えていない。

最近はiPhoneで昔のスーパーファミコンのRPGのリメイク作品なんかが出てたりするので、やってみたりした(スーパーファミコンを持っていなかった)。でも、子どものころほどゲームにのめり込めない。

心理療法家の河合隼雄さんが、「どっぷりつかったものが本当に離れられる」と書いていたが、子どものころファミコンにどっぷりつかったから自然と離れられたのかなとも思う。もちろん、どっぷりつかった人が趣味でゲームを続けていても全然いいんだけど。

子どものころに、大人が良くないと言うものがそんなに悪いものじゃなかった、というのは以外とあると思う。ただ、最近はネットなどの情報も膨大にあるので、そう呑気に言ってられない部分もあるのかもしれないが。

世の中はどうしても息苦しくなってきているし、しわ寄せは弱い所へ流れて行く。自分が今の時代の子どもだったらと思うと、上手くやっていく自信は無い。今の子どもたちはきっといろいろと大変なんだろうなと思う。

インターネットの情報は目を引こうと必死なものばっかりだし、よっぽど気をつけてないと惑わされっぱなしになってしまう。SNSなんかもあって「周りの目」というのが濃くなっているんだろうか。

そんなことを考えていると、なんだかベックの『モダン・ギルト』の歌詞を思い出してしまう。

街を歩けばピリピリするし
家にいれば寒気がする
何もかもに打たれている気がして
10分前に我慢も限界に達した

モダン・ギルト 何も持たずに座礁した
モダン・ギルト まるで投獄されたよう

Beck “Modern Guilt”

うーん。この文章を書いていて思ったけど、自分が10代だったとしたら、大人から「今の子どもたちはいろいろ大変だね」なんて言われたくないな。「大変とか勝手に決めつけるな」って思うかもしれない。それは良くない。

自分が子どもの時だった時代に比べて、今の時代が良くなっているか悪くなっているかは簡単には言えないんだろう。手放しに昔が良かったとも思えないし、昔に戻りたいなんて到底思わない。

当たり前に思っていたものが、過去のものになっていく。それを認めていくのは意外と難しいのかもしれないけど必要なことだろう。過去を懐かしむのは悪くないけど、しがみついていては前に進めない。

過去を振り返ることの良い所は、現在を相対的に見られるということだろう。そこで現在に対する発見がある。

だから昔の本を読んだりするのも、現在との違いがあって面白い。昔の当たり前は現在の当たり前ではないことが多い。昔はそれが普通だったんだなとびっくりする事もあるけど、今は普通のことがきっと未来では普通じゃない。

ファミコンをやっていた時代に当たり前だったことは、もう当たり前じゃないのだ。だから、今現在ここで当たり前のことなんて絶対じゃないし、大したことじゃないのかなと思ったりもする。

大事なのは周りを見渡して普通を探すんじゃなくて、自分がどう思うかなんだろうな。