超という言葉がどうしても使えなかった。

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みんなが使っている言葉がすんなり使えない。その時代、その時々で流行りだす言葉があると思うけど、みんなが一斉に使い出すある種の言葉が苦手だ。どうしても気になって使うことができない。

その昔(90年代?)、「超」という言葉が流行りだした時があった(今で言う「めっちゃ」ですね、元は関西弁だと思うけど)。周りの人たちが、超すごいとか超面白いなんて言葉を使い出した時に、「超」という言葉がどうしても使えなかった。

自分がその言葉を使う違和感の方が先に立ってしまって、どうしても使うことが出来なかった。みんなどうしてすんなり新しい言葉を使えるんだろうと不思議に思った。きっと自分に欠陥があるんだろうと思った。

その言葉が使い古されてきた辺りに、ふざけた感じであえて使ったことはあると思う。だけど流行っている真っ最中に自然に使うことは出来なかった。

たぶん、多数の人が同じ方向に向かって進む流れが苦手なんだろう。でも流行っているものがすべて嫌いというわけではない。きっと独特の言葉の上滑り感というか、そういうものが苦手なんだろうと思う。

そして、苦手に感じる言葉は表現をしようとしているのに、どこか表現するのを回避しているように僕には感じられる。

最近はテレビを観ていても、いちいち引っ掛かってストレスになってしまうので下手な番組は観ないようにしている。表面上はなごやかに見える番組でも、なんだか怖くなってしまうこともある。

そういう人はノリが悪いと思われても、無理して流行言葉を使ったり、他人に合わせるストレスを抱えるより、自分を突き詰める方が良いんじゃないだろうか。

そして、きっといろいろ考えすぎてしまう僕側にも問題があるんだろう。きっとトラウマみたいなものだ。

20代半ば頃まで本を読むという習慣がなかったから、それまでは自分がどういう状態にあるのか、自分がどういう人間なのか、そして世の中がどうなっているのかということをほとんど意識しないで生きてきた。いや、意識しないでというよりは、無意識に意識しないようにしていた、ということかもしれない。

その言葉への苦手意識はそのまま、自分の世の中への立ち位置にも繋がっていた。たぶん、それだけではないんだろうけど。

僕は一人でいることが苦にならないし、一人でいることが好きだ。世の中にはいろんな人がいる。大勢でいる方が良い人もいるし、一人で考えるのが好きな人もいる。でも一人の人間がどちらかに完全に傾くということは現実的にありえない。バランスと傾向ということで、どちらも必要なんだと思う。

問題はどちらかが良いという価値観に傾いてしまうことだろう。一人でいることはいけないことだという価値観が蔓延してしまうのは何故だろう。

最近は「ぼっち」とか言って、仲間内から外れることを極端に嫌う傾向があるらしいけど、これもネットやSNSの影響があったりするんだろうか。ネットが多様性を広げるものじゃなくて、価値観を固定化させていくものだとしたら悲しい。

日本は「こうでなければいけない」という固定観念が多い社会だということをよく聞く。僕は海外へ行ったことがないので(出来ることならいろいろ行ってみたいとは思う)体感としては比較できないが。

僕は流行の言葉の中にそういう同調圧力の影を見ているのかもしれない。それは考え過ぎだろうか。

話をもっと軽い方へ。ちょっと種類が違うが、言葉の表現ということで書くと、食べ物パッケージとか広告の表現で使われる「ふわとろ」とか「サクふわ」みたいな言葉も苦手だ。

パッケージや広告、食品系は特に一斉に流行る言葉を使うので、スーパーやコンビニで食べ物を買うときはどうしても気になってしまう。最近は商品名やキャッチコピーに「香る」がものすごく目につくのですごく気になる。最近は食べものがよく香るらしい。

ちょっと前に、スーパーのお惣菜コーナーのポップに「あずき香るおはぎ」って書いてあって力が抜けてしまった。

そんなこといいじゃないかと思うかもしれないけど、気になってしまう。とりあえず流行っている言葉を入れておきましょうという発想がどうも好きになれない。

文句ばっかりみたいになってきたのでそろそろやめておこう。