内面は誰にでも開く可能性がある

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時々、イギリスの階級制度を考える。それはイギリスの音楽を聴くから意識してしまうことであって、特に普段は意識しない。イギリスの音楽にはそういう意識が色濃く出ている場合が多いように思う。

二十年前ぐらいに初めてRadioheadの”The Bends”を聴いた時に、彼らは中産階級の出身だということを知って、イギリスの階級制度というものをを初めて意識した。

その後、Manic Street Preachersを聴くようになって、彼らは労働者階級の出身だということを知った。彼らの曲は労働者階級を意識した曲が多かった。

でもまだ全然ピンと来なかった。階級ってなんだ?とぼんやりと思うぐらいにすぎなかった。どの階級の出身かということが、バンド同士の対立の原因のひとつになっていたりすると、少し不思議に思った。

何年か前にも、原因はよく分からないが、Manic Street Preachersのベーシストのニッキー・ワイアーが、Radioheadのギタリストのエド・オブライエンを罵倒したという記事を見た。その時の言葉の中に「寄宿学校に戻るんだな」ってセリフがあったらしいけど、寄宿学校っていわゆる育ちの良い人が通う学校らしい。バリバリに階級を意識している。もしくはファンへのポーズも含まれているのかもしれない。

僕はどっちのバンドも好きなので、こういうニュースはちょっと悲しくなってしまう。ただ、世界で一番好きなバンドを挙げるとしたら、間違いなくRadioheadなんだけど。

日本はといえば、昔は一億総中流ということが言われていたし、階級を意識することはあまりないと言われる。確かに、大人になるまで階級みたいなことを意識したことなんてなかった(今の時代は違いますかね)。だからイギリスの中産階級と日本で言われている中流という意味の違いがよくわからなかった。Radioheadの中産階級出身であることの苦悩や罪悪感というのもよくわからなかった。

大人になって、さて、と考えてみて、単純に日本に当てはめられるとは思わないが、僕は間違いなく労働者階級だろうと思った。自分を含めて身内で大学に行ったという人も知らない。もし自分がイギリス出身だったとしたらRadioheadを支持しづらい立場だったんだろうか?その辺はよく分からない。

こういう話をするのが難しいのは、単純にひがみを言っていると思われがちな所だ。そんなことを気にしたってしょうがないとか、そんなことは人生に関係ない、みたいな話になってしまう。そういう話じゃなくて、自分が労働者階級的だということをどうこう言いたいわけではなく、ただそうだという話。外の文化を知ることで自分の属する文化、置かれている状況を相対的に知るという要素があるかもしれない。

だから単純に立場だけ考えれば、僕が心理的に肩入れしやすいのはManic Street Preachersの方になるが、僕は労働者階級出身だからManicsを好きだというわけじゃなくて、表現に惹かれるものがあるし、その音楽が好きだから好きなのだ。

とは言え、そういう心情に寄り添った曲にも共感できる。”A Design for Life(人生設計)”という曲はこう歌っている。

俺たちは愛について議論したりはしない
泥酔できさえすりゃいいのさ
俺たちにはどんな浪費も許されてないし
これが最終地だということも言い渡されている

Manic Street Preachers — “A Design for life”(和訳)

この歌詞に続いてA Design for Lifeという言葉をリフレインすることで、人生設計など無いという皮肉を歌っているように思う。これを大声で歌いたくなる気持ちは共感できる。

しかし、同様のテーマで、”The Masses Against The Classes”という曲がある。直訳は「労働者階級対上流階級」という露骨なタイトル。

この曲も好きなんだけども、メッセージ性として上流階級に対立するということに僕は心情的に入っていけない。僕はイギリス人ではないので共感しきれないのは当然といえば当然なんだけど、対立からは距離を置きたくなってしまう。共通の敵を作って対立によって団結を深める図式に感じられるからか、僕にはどうもコミットしきれないものがある。

僕は自分の立場を表明したり、何かに属しているという意識が苦手なのかもしれない。そういうものに沿って考えるよりも、自分自身を内面的に掘り下げていきたいと考えてしまう。だからなのか、内省に満ちた”This is my truth tell me yours”が個人的に非常に好きなアルバム。

僕は団結による共感よりも、内面を掘り下げた所の深いところでつながる共感の方にどうしても惹かれてしまう。

自分は分不相応なことをしたり考えたりしているんじゃないだろうか、という意識が頭をよぎることはあるが、内面はどこに属していようが誰にでも開く可能性がある、なんてことを考える。内面はある意味では外面的なものよりよっぽど平等ではないだろうか。

外面的なものによって見える物事は多いけど、それだけに捉われると大事なものを見失う。外面的なものを取り払って、井戸の奥底をぞいてみれば共通の水が流れているのかもしれない。