「こうあるべき」が人を追い込む

sun and deer

先日、なんとなくテレビのチャンネルをNHKに回したら、芸人の山田ルイ53世さんと動物学者の人(お名前は忘れてしまった、失礼)が対談していて、途中からだったけど面白いなと思って最後まで見てしまった。

印象に残った話が、山田さんは10代の時に6年間ひきこもっていた過去があって、インタビューなどでその話をすると、「でもその6年があったから今があるんですよね」ということをよく言われるそうだ。そういういわゆる負の過去が、「意味」があったという方向に持っていかれることにプレッシャーを感じる、という内容のことを言っていた。すべてに「意味」がないといけないのかと。

それはどういうことなんだろうと考えた。

確かに、過去のすべてのことに意味がある、という考え方は前向きに思えるし、きっとある意味では間違った考え方ではないんだろう。でもそれは自分の捉え方次第で思うものであって、他人が言うべきことではない。人の気持ちを先回りして言うべきではないと僕は思う。

そういうもっともらしい言葉が、近頃軽く扱われているような気もする。過去にあったことは、それこそ何年、何十年と重ねて、初めて意味があったと思えるものではないだろうか。他人に無理やり過去の意味を押し付けられたらたまったものではない。

それに、前向きになるということはすばらしいことだけど、自分で過去を消化して初めて前向きになれるのであって、あまりに早い段階で物事の意味を考えすぎると、それこそ「意味」がなくてはならない、「前向き」にならなくてはならないというプレッシャーになるような気がする。

自分の負でも他人の負でも、見たくないがために無理に前向きになったり、無理に意味づけしようとしてしまえば、負は消化されずにズルズルと引きずることになるんじゃないか。

「意味があった」という型に当てはめてしまうことで安心して、考えるということをやめてしまうのだ。

今はネットのおかげですぐそれなりの答えにたどり着けてしまうけど、それがかえって目を曇らせるということがあると思う。これは結構甘く見てはいけない問題だと思っている。そんなのわかっているというつもりでも、いつのまにか情報に取り込まれてしまうから。

世界はこうあるべき、という気持ちは誰でも少しは持っているものだと思うけど、「こうあるべき」世界なんてものは錯覚だということも心の片隅に置いておいた方が良いと思う。

「こうあるべき」が世の中を作りもするが、「こうあるべき」が人を追い込むし、世の中を息苦しくさせる。「こうあるべき」は人が人をコントロールさせる。人が人をコントロールしだすとろくなことはない。

昭和の世界は「こうあるべき」で丸く収まっていたが、それは誰かが我慢して割りを食っているからで、その世界が上手くいっているからではない、というような内容のことを河合隼雄さんが言っていた気がする。今まで丸く収まっていたものを、丸く収めない、というのも変化のためには必要なのかもしれない。

「こうあるべき」も「意味があった」も、そう思いたいからあるわけで、実際の自分の感情や気持ちよりも世の中の価値観を優先している。

何かにつまずいて、それでも考え、いろいろ試行錯誤しながら自分を打ち立てていく人が僕は好きだ。試行錯誤するということは、自分の中の失敗を認めるということが必要になってくる。失敗を認めるからこそ前に進める。

他人の失敗を認めない風潮もあるみたいだけど、それこそ「こうあるべき」に捉われているんじゃないだろうか。「こうあるべき」に捉われれていると謙虚になれなくなってしまう。そしてまた他人に「こうあるべき」だと押し付けるのだ。