言葉と感じ方

shower

最近の状況では仕方ない部分もあるとは思うけれど、攻撃的な物言いを目にする機会が多くなったように思う。

でも最近思うのは、言葉は不完全なものだから意味の取り違えですれ違うのは仕方がないとしても、「人間だから、すれ違うこともある」ということを意識していないと、無意味な争いも増えていくような気がする、ということだ。

例えば、「餅はのどにつっかえることがあるから、気をつけて食べないといけない」と誰かが言った時に、「餅を食うなと言うのか!」とか、「餅をバカにするなんて!」みたいな反応も結構あると思うから。

みんながみんな互いに理解できなくてもいいとは思うけど、少しでも相手を理解しようとする気持ちがないと、誰もが言いっ放しみたいになっていくような恐怖を時々感じる。

人はトラウマのある部分の言葉には反応しやすいものだ。そういうことを意識すると、反応してしまった後でも自分の弱点を知ることが出来るし、後の生活に生かしやすいように思う。反応してはいけないとか、怒ってはいけないということではなく、その感情が自分に対して及ぼす影響を知っておいたほうが何かといいんじゃないかな、ということだ。

時には怒りも必要だと思う。でも、怒っている自分は怒っていない自分のことも考えた方がいいと思う。というのは、僕は気が短いので自分に言い聞かせている部分でもある。

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉があるけど、おのれを知るということは難しいものだ。鏡に映った自分を見てもそれは鏡に映った自分なので、外面的な自分というものも自分では直接は見ることはできない。

内面的なものだって、確固とした「自分」というものは存在しない。自分の「傾向」はあると思うけど、それだって常に変化して動いている。

だから経験と関係性で推し量っていくしかないわけだけど、それを妨害するのもまた感情である。だから、その自分の感情から自分を推し量っていくしかない。自分の敵は自分というのも、自分の事は見えなくなりがちだということが関係している思う。

僕は心理の専門家ではないので詳しいことはわからないけど、自分の実感としてはそんな感じになる。

最近とくに、「自分」というものについてばかり書いている気がするけど、まあ仕方ない。僕は内面的なことからしか物事を考えられないたちだ。

自分自身と内面について考えることは、ある意味では宇宙全体を考えることと同じだと思っている。そんな風に考えてみると、こんな面倒くさい考え方もきっと無駄ではないんじゃないかな。