How to disappear completely

cave

ふと気づくと、一貫して自分の中にあるテーマというか、心と体に染み付いていることに気づくことがある。

僕の場合は、子供の頃から自分の気配を殺すということが一貫して染み付いていると思う。これは無意識にやっていることなので、やろうとしてやっているわけではない。気がつくとそうなっている。それに気づいたのはだいぶ前の話だけど。

特に大勢の中にいる場合は、無意識的に気配を消していることが多いと思う。気づかれないように気配を消しているというよりは、自分の存在は誰かに感知されないもの、という感覚がある。

実際、自分がそこにいても気づかれないことが多かった。気配を消すのは得意だと思う。昔はそれこそ、話したことのない人に話しかけられると「あ、自分って感知されるんだ」と不思議に思ったことがある。

だから特に自分が何をやっていても、誰も別に気にしないだろうという思いがあるような気がする。ある意味では気持ちは透明人間のようでもある。でも、もしかしたら自分としては透明人間が理想なのかもしれない。

でももしかしたら、僕は自分であることから逃げたいのかもしれない。それは自分が好きとか嫌いとか、そういうことではなく、何かしらの殻を脱ぎたいのかもしれない。だとしたら、自分であることとは過去の記憶の集積なのかもしれない。

もともと自分というものは形があって無いようなものだ。仏教では「空」という考え方をするし、自分なんていうものも無いのだという。だから自分が自分であることなんて、大したことじゃないのかもしれない。でもそれは自分の考えを捨てて、他人や社会に合わせればいいという意味ではないはずだ。

完全に姿を消して生きていけたらと思うのは空想かもしれないけど、自分というものが無いというのも事実だし、自分が自分であることも事実だ。だからその両方を橋渡しして眺められたら良いのかなと思う。「自分が自分である」ということと、「自分なんて無い」ということは、矛盾しないんじゃないだろうか。

この前、映画『万引き家族』を観た。映画の中の家族たちは社会的には存在を消して生きているようだったけど、幸せそうに見えたのが印象的だった。

社会的に悪いことだからと言って、人間的に悪いこととは限らない。逆に社会的に良いことだからと言って、人間的に良いこととは限らない。だからといって悪いことをすれば良いというわけじゃないけど。

脳の「フロー」って状態があるらしいけど、きっとそれって自分が無いという状態なんじゃないかと思う。昔にトム・ヨークのインタビューを読んで、ジミ・ヘンドリックスがギターを演奏している時は「神聖な状態」なんだって言っていた気がする。それってきっと自分が無い瞬間なんだろう。

そういう瞬間が訪れるために生きていると言ってもいい。