好きとか嫌いじゃなくて

bird20210201

最近、承認欲求という言葉をよく目にするけど、なんでそんなにこの言葉が使われるようになったんだろう。どうもあまりいい意味では使われないらしい。

もともと承認欲求なんて誰にでもあるものだと思うけど、あえてこの言葉が多く使われているところを見ると、言葉の意味が拡大されているようにも思える。

ところで、僕は多く使われる言葉があると、その言葉から少し距離を置きたくなる。その言葉に近づきすぎると近視眼的に見えなくなるものがあるような気がするから。

それはそれとして、承認欲求と呼ばれるものはきっと欲の一種なんだろう。欲がないと人間は生きていけないけど、欲に振り回されるとおかしくなってくる。SNSで「いいね」ばかり求めてしまうのは欲が行き過ぎた結果なのかもしれない。

考えてみれば世の中には欲望を駆り立てるものばかりで、自分が他人からどう見えるかを気にする方向に仕向けるものが溢れているような気がする。他者目線で生きていると自分自身がなくなってしまうと思う。

もうひとつ最近よく言われる言葉で自己肯定感というのがあるけど、これもたぶん同じような問題が関わっている言葉じゃないだろうか。

簡単に言ってしまえば、自己肯定感が無いから他人からの承認で満たそうとする、ということになってしまうかもしれない。でも、僕はやっぱり言葉に近づきすぎると見えなくなるものがある気がするので、少し言葉から離れたくなる。

自己肯定感という言葉の通り、自分を肯定しなければいけないような気がしてしまうけど、むやみに否定をしなければ、あえて肯定をする必要もないんじゃないかと思う。

この間、うちの奥さんとそういう話になった。自分っていうのはもう好きとか嫌いっていうことじゃないよねっていう話をした。

自分を受け入れることは肯定も否定もなくて、「自分は自分なんだからしょうがねえ」っていう感じだと思う。

開き直りと言えば開き直りだけど、自分は自分なんだから変わらなくていいという意味じゃなくて、すでにある自分というものを受け入れるということ。だから、僕は自己肯定というよりは自己受容という言葉の方がまだしっくりくるような気がする。

吉田拓郎の『悲しいのは』という歌の最後で、

悲しいのは 私がいるために
悲しいのは 私であるために
悲しいのは 私自身だから

吉田拓郎『悲しいのは』

と歌っている。これは自分を否定している歌じゃなく、受け入れる歌だと僕は思っている。こういう歌詞だけど、曲調は明るい。

承認は他人に任せるだけじゃなく、自分でしてしまったらいいんじゃないだろうか。