乗っていたバイクは3台ともヤマハだった

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バイクに乗らなくなってかなりの年月がたつが、二十歳過ぎぐらいに実家を出る前はバイクに乗っていた(と言ってもバイクに特別詳しいわけではない)。初めて乗ったのは16歳だったと思うけど、ヤマハの原付スクーターJOGだった。

17歳の時にファミレスでアルバイトをして、これまたヤマハのYB-1というバイクに買い換えた。原付だけど4速ミッション付きだった。ミッション付きのバイクにどうしても乗りたかったのだ。レトロな見た目も気に入った。

YB-1はとてもいいバイクだった。今は排ガスの問題とかで2ストロークエンジンのバイクは生産されてないらしいけど、50ccなりに2ストロークの加速は良く、初めてのミッション付きのバイクで、ギアチェンジが楽しかった。10代の時期は本当にこのバイクが足だった。今思えば短いバイク人生だったけど、一番愛着があったバイクだった。最近夢にも出て来たし。

当時ネイキッドバイク(カウルのないバイク)が流行っていて、いつか中型バイク(普通二輪)に乗ってやろうと思っていた。その当時欲しかったのはスズキのバンディットかカワサキのバリオスという250ccのバイクだったと思う。

18歳で社会人として働き出し、たしか19歳ぐらいで普通二輪免許を取った。250ccのバイクが欲しかったはずなんだけど、発売されて間もないヤマハのFZ400という400ccのバイクが気になり始めた。バイクレースは全く知識がなかったが、ハーフカウルで少しレトロな3色のデイトナカラーが昔のレースマシンのようでかっこ良く見えた。乗っている人もあまり見かけないし、これはいいと思ってローンで買ってしまった。結果、乗っていたバイクは3台ともヤマハだった。

給料をもらい出した喜びと、若さゆえの勢い、お金の使い方もわかってなかったし、実家暮らしだったということもあってその時は勢いが止まらなかった。

しかしその勢いとは裏腹に、50ccからいきなり400ccに乗り換えたので、スピードが速すぎて持て余してしまった。うなるようなエンジン、走り出すともっと速く走れと急かしてくるようだった。自分はバイクにそれほどスピードを求めてないのかもしれないと思い始めた。

夏は大きなエンジンがかなり熱い。そして結構重い。駐車する時に見事に立ちゴケして、ウインカーと心に傷がつく。50ccのように気軽にコンビニへ行くって感じでもない。すごくいいバイクなんだけど、ちょっと自分には向いてないのかもしれない。

そして買ってから数ヶ月後のこと、そのFZが走行中にどこかビィーッと部品が振動しているような音がし始めたので、そのバイクを買ったバイク屋に持って行った時だった。

これは自分が悪いんだけど、バイクに貼ってあったバイク屋のステッカーを、若かった僕はかっこ悪いと思って剥がしてしまっていた。おじさん夫婦がやっているような街の小さなバイク屋で、わりと大きめなバイクを買ったこともあって、数ヶ月前だし多少は覚えてはくれているだろうと思って持って行った。

到着後、作業中のおじさんに「バイクを診てもらいたいんですけど」と声をかけたら、威圧的な態度で歩いてきて「だったら買ったところで診てもらわないとだめだよ」とにらみつけられた。

「あの、ここで買ったんですけど…」と僕が言うと、そのおじさんは急に引きつった笑顔になり、「あぁ、そうだったんですか」とコロッと態度を急変させた。「ステッカー剥がしてたからいけないんですよ」とかなんとか、引きつった笑顔で何かを言っていた。

僕はあっけにとられて何が起きているのか分からず、結局バイクもたいして診てもらわず帰った。あの威圧的な態度から急変した引きつった笑顔は、一生忘れられないだろう。後にも先にもあれぐらい態度が急変した人を見たことがない。19、20歳ぐらいの若造が来たのでなめてかかったのかもしれない。ステッカーを剥がしていたのは僕が悪かったが、ああいう大人にはならないようにしようと思った。

その後、気持ちは一人暮らしを始めるほうに傾いていった。結局FZ400は購入して1、2年後ぐらいに一人暮らしを始める資金のために手放した。それ以降バイクには乗っていない。

400ccのバイクは勢いで買って半分失敗した感じがあるが、後悔はしていない。何事もやってみないと自分に向いているかどうかはわからないので、とにかくまずはやってみるしかないと思っている。

普段はバイクに乗っていたことはまず思い出さないし、思い出してみるとFZに乗っていた当時の自分が自分ではなく、別人のようにも思える。

これから先バイクに乗ろうとは今の所思っていないけど、もっと年をとったら125ccから250ccぐらいのバイクに乗るのも悪くないかなとは思う。ただ、うちの奥さんがバイクには乗って欲しくないらしいので、もう乗らないような気もする。

だけど当時の自分が別人に思えるように、未来の自分も今の自分を別人のように思うのかもしれない。そう考えると先のことは誰にもわからない。

超という言葉がどうしても使えなかった。

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みんなが使っている言葉がすんなり使えない。その時代、その時々で流行りだす言葉があると思うけど、みんなが一斉に使い出すある種の言葉が苦手だ。どうしても気になって使うことができない。

その昔(90年代?)、「超」という言葉が流行りだした時があった(今で言う「めっちゃ」ですね、元は関西弁だと思うけど)。周りの人たちが、超すごいとか超面白いなんて言葉を使い出した時に、「超」という言葉がどうしても使えなかった。

自分がその言葉を使う違和感の方が先に立ってしまって、どうしても使うことが出来なかった。みんなどうしてすんなり新しい言葉を使えるんだろうと不思議に思った。きっと自分に欠陥があるんだろうと思った。

その言葉が使い古されてきた辺りに、ふざけた感じであえて使ったことはあると思う。だけど流行っている真っ最中に自然に使うことは出来なかった。

たぶん、多数の人が同じ方向に向かって進む流れが苦手なんだろう。でも流行っているものがすべて嫌いというわけではない。きっと独特の言葉の上滑り感というか、そういうものが苦手なんだろうと思う。

そして、苦手に感じる言葉は表現をしようとしているのに、どこか表現するのを回避しているように僕には感じられる。

最近はテレビを観ていても、いちいち引っ掛かってストレスになってしまうので下手な番組は観ないようにしている。表面上はなごやかに見える番組でも、なんだか怖くなってしまうこともある。

そういう人はノリが悪いと思われても、無理して流行言葉を使ったり、他人に合わせるストレスを抱えるより、自分を突き詰める方が良いんじゃないだろうか。

そして、きっといろいろ考えすぎてしまう僕側にも問題があるんだろう。きっとトラウマみたいなものだ。

20代半ば頃まで本を読むという習慣がなかったから、それまでは自分がどういう状態にあるのか、自分がどういう人間なのか、そして世の中がどうなっているのかということをほとんど意識しないで生きてきた。いや、意識しないでというよりは、無意識に意識しないようにしていた、ということかもしれない。

その言葉への苦手意識はそのまま、自分の世の中への立ち位置にも繋がっていた。たぶん、それだけではないんだろうけど。

僕は一人でいることが苦にならないし、一人でいることが好きだ。世の中にはいろんな人がいる。大勢でいる方が良い人もいるし、一人で考えるのが好きな人もいる。でも一人の人間がどちらかに完全に傾くということは現実的にありえない。バランスと傾向ということで、どちらも必要なんだと思う。

問題はどちらかが良いという価値観に傾いてしまうことだろう。一人でいることはいけないことだという価値観が蔓延してしまうのは何故だろう。

最近は「ぼっち」とか言って、仲間内から外れることを極端に嫌う傾向があるらしいけど、これもネットやSNSの影響があったりするんだろうか。ネットが多様性を広げるものじゃなくて、価値観を固定化させていくものだとしたら悲しい。

日本は「こうでなければいけない」という固定観念が多い社会だということをよく聞く。僕は海外へ行ったことがないので(出来ることならいろいろ行ってみたいとは思う)体感としては比較できないが。

僕は流行の言葉の中にそういう同調圧力の影を見ているのかもしれない。それは考え過ぎだろうか。

話をもっと軽い方へ。ちょっと種類が違うが、言葉の表現ということで書くと、食べ物パッケージとか広告の表現で使われる「ふわとろ」とか「サクふわ」みたいな言葉も苦手だ。

パッケージや広告、食品系は特に一斉に流行る言葉を使うので、スーパーやコンビニで食べ物を買うときはどうしても気になってしまう。最近は商品名やキャッチコピーに「香る」がものすごく目につくのですごく気になる。最近は食べものがよく香るらしい。

ちょっと前に、スーパーのお惣菜コーナーのポップに「あずき香るおはぎ」って書いてあって力が抜けてしまった。

そんなこといいじゃないかと思うかもしれないけど、気になってしまう。とりあえず流行っている言葉を入れておきましょうという発想がどうも好きになれない。

文句ばっかりみたいになってきたのでそろそろやめておこう。

ファミコンってもうレトロなのか

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気がついていれば年月が経っている。最近特にだけど、時代が変わったなと思うことが多くなって来た。

もう十数年前になるが、たしかネットの記事か何かだったと思うけど、ファミコンがレトロなものとして紹介されていて、そうかファミコンってもうレトロなのかとびっくりしたことを覚えている。

子どものころ、ファミコンは「最近の子ども」の代名詞のようなイメージで、最近の子どもは外で遊ばないでファミコンばっかりやっているので良くない、ということをよく言われていた。

だから、自分の中で「最近」のイメージがついていたファミコンがレトロになってしまったということに結構びっくりした。時代は流れていくんだなと実感した瞬間だった。

自分も例に漏れず、子どものころはファミコンをものすごくやった。時々思うんだけど、そのファミコン経験が大人になってからのパソコン関係の扱いに結構役立ってるような気もする。今の子どもたちには到底適わないだろうけど。

20歳過ぎぐらいで一人暮らしを初めて、ゲームをほとんどやらなくなった。音楽活動したり本を読んだり、興味の向く方向が違ってきたからなのかもしれない。最後に買ったゲーム機は初期のプレイステーションである。それも押し入れにしまったまま、引っ越しを重ねてどこにいったか覚えていない。

最近はiPhoneで昔のスーパーファミコンのRPGのリメイク作品なんかが出てたりするので、やってみたりした(スーパーファミコンを持っていなかった)。でも、子どものころほどゲームにのめり込めない。

心理療法家の河合隼雄さんが、「どっぷりつかったものが本当に離れられる」と書いていたが、子どものころファミコンにどっぷりつかったから自然と離れられたのかなとも思う。もちろん、どっぷりつかった人が趣味でゲームを続けていても全然いいんだけど。

子どものころに、大人が良くないと言うものがそんなに悪いものじゃなかった、というのは以外とあると思う。ただ、最近はネットなどの情報も膨大にあるので、そう呑気に言ってられない部分もあるのかもしれないが。

世の中はどうしても息苦しくなってきているし、しわ寄せは弱い所へ流れて行く。自分が今の時代の子どもだったらと思うと、上手くやっていく自信は無い。今の子どもたちはきっといろいろと大変なんだろうなと思う。

インターネットの情報は目を引こうと必死なものばっかりだし、よっぽど気をつけてないと惑わされっぱなしになってしまう。SNSなんかもあって「周りの目」というのが濃くなっているんだろうか。

そんなことを考えていると、なんだかベックの『モダン・ギルト』の歌詞を思い出してしまう。

街を歩けばピリピリするし
家にいれば寒気がする
何もかもに打たれている気がして
10分前に我慢も限界に達した

モダン・ギルト 何も持たずに座礁した
モダン・ギルト まるで投獄されたよう

Beck “Modern Guilt”

うーん。この文章を書いていて思ったけど、自分が10代だったとしたら、大人から「今の子どもたちはいろいろ大変だね」なんて言われたくないな。「大変とか勝手に決めつけるな」って思うかもしれない。それは良くない。

自分が子どもの時だった時代に比べて、今の時代が良くなっているか悪くなっているかは簡単には言えないんだろう。手放しに昔が良かったとも思えないし、昔に戻りたいなんて到底思わない。

当たり前に思っていたものが、過去のものになっていく。それを認めていくのは意外と難しいのかもしれないけど必要なことだろう。過去を懐かしむのは悪くないけど、しがみついていては前に進めない。

過去を振り返ることの良い所は、現在を相対的に見られるということだろう。そこで現在に対する発見がある。

だから昔の本を読んだりするのも、現在との違いがあって面白い。昔の当たり前は現在の当たり前ではないことが多い。昔はそれが普通だったんだなとびっくりする事もあるけど、今は普通のことがきっと未来では普通じゃない。

ファミコンをやっていた時代に当たり前だったことは、もう当たり前じゃないのだ。だから、今現在ここで当たり前のことなんて絶対じゃないし、大したことじゃないのかなと思ったりもする。

大事なのは周りを見渡して普通を探すんじゃなくて、自分がどう思うかなんだろうな。