時には多少の危険も必要なのかもしれない

steel tower

街中にある大きな高い鉄塔を見上げると、なんだか怖くなることがある。普段はそんなに意識しないけど、大きさが周りの住宅と全然釣り合わない高さのものがあったりする。電線をどうやって上に這わせたのか、少し気になる所ではある。ひとつの鉄塔に電線を乗せた後、次の鉄塔まで車で引っ張って運ぶんだろうか?

高いビルやマンションを真下から見上げると怖くなる。東京タワーなんか下から見上げるとすごく怖い。思い出してもクラクラする。

子どもの頃は凧揚げが少し怖かった。高い所にあって凧糸でつながっているものを自分が手に持っているということが怖かった。これは高所恐怖症とはちょっと違うんだろうか。

高い所に宙ぶらりんになっているものを手に持っているのが今でも怖い。手に持った携帯なんかを橋の上から手すりの外に出すのもなんだか怖い。高い所から風景の写真を撮る時は、必要以上に携帯を握りしめてしまう。

それでも、子どもの頃は高い所に行くこと自体はそんなに怖いと思わなかったような気がする。まあそんなに高い所に行く機会はなかったと思うけど、ジェットコースターに乗るのも割と好きだった。

大人になって気づいてみると、高い所が怖くなっていた。最近は高所恐怖症と言ってもいいくらいかもしれない。高いビルで展望コーナーがある所に行ってみたことがあるけど、怖くて窓側に体重をかけたくなかった。高い所で手すりなどに体重をかけている人を見ると、よくもそんなものを信用できるものだと思う。ビルの窓なんかも信用したくない。

年をとるにつれていろんなことが怖くなるのは、いろんなことを知って情報量が増えるからだろうか。若い時の特権は怖いもの知らずということだと思うけど、もう少し怖いものを知らなかった時にもっといろいろチャレンジしておけば良かったと思うことがある。

だけど、もしかしたらまだまだこの先もどんどんいろんな事がもっと怖くなってくるのかもしれない。だとしたら今のうちにもっといろいろチャレンジしてみるべきだろう。ただ、ジェットコースターに乗りたいとはもう思わない。

高い所の怖さとまた違う話になるけど、大人になると「怖いけどやる」ということが重要になってくる。いろいろ知ってくればもう怖いものだらけになるわけだから。

だけど、怖いものの先のことも経験から少しずつ見えてくる。怖いと思って失敗しても、そんなものはただの失敗だと思えるようになってくる。

20代の時なんかも自分なりにいろんなことをやっていろんな失敗をしたけれど、当時はそんなものはただの失敗だ、とは思い切れなかった所がある。

失敗してダメだなぁと思うんだけど、そこからの立て直しがすごく時間がかかっていた。失敗と自分を重ね合わせて、思考がよりダメな方に誘導していくから負の連鎖になる。

今でももちろん同じようにダメだなぁと思う事はあるけれど、その先のことがわかってくるから切り替えも早くなってくる。後で結局その失敗が生きてくることがわかってくるからだろう。

そして、恐怖や不安を強く感じる時には能力を発揮しにくい、失敗したらダメだと思えば自然と体は縮こまる。ここが難しい所だ。

恐怖を感じるのはきっと正常なことなんだろう。だけど、時には多少の危険も必要なのかもしれない。僕はどちらかというと慎重派なので、何かをやる前にいろんなことを考えてしまう。だから恐怖や不安を感じる所にあえて進んで行く感覚を忘れたくはないと思う。

以前読んだ『アーティストのためのハンドブック(原題:ART & FEAR)』という本に、こんな内容の事が書いてあった。

ある学生たちに、陶芸の授業の時に二つにグループを分け、一方では作品の量を評価基準にして、もう一方では作品の質を評価基準にした所、質が良いとされる作品は量を評価基準にしたグループから多く生まれたということだった。量を評価基準にした学生たちは、たくさん作る中で失敗から多く学んでいくことができた、ということらしい。

文字通り、失敗は成功のもとなのかもしれない。

今自分が取り組んでいることは自分にとって大きいことだと思うけど、失敗を恐れて中途半端ものは作りたくないと思う。腰が引けたら思い切ったものは作れないだろう。

今度高い所に行ったら、思いっきり身を乗り出して下を見下ろしてやろうかな。怖いけど。

バターナイフは壁を指し示してくれた

takahiro suganuma bird

意味のないことで人のことを羨ましいと思うことが子供の頃は結構あった。今はそういうことはあんまりないけど、子供の頃は多かったと思う。

今でもたまに思い出すのが、小学校低学年ぐらいの時だったと思うが、近所の友達の子がうちの家に遊びにきて食パンを食べる状況があった(どうしてそういう状況だったのかは覚えてない)。食パンにマーガリン(バターじゃなく)を塗る時に、うちのやり方では一回バターナイフの表面に取ってパンに乗っけてから、バターナイフの裏面で伸ばすというやり方だった。でもその子はパンにマーガリンを塗る時にバターナイフの表面は使わず、裏面にマーガリンを取り、そのままパンに伸ばしていった。

それを見てなぜかカッコいいと思った。バターナイフの表面を使わなかっただけなのに、なんだかスマートに見えた。どうでもいいようなことだけど、他人のやり方がカッコよく思えることがある。あれはいったいなんだったんだろう。たぶん子供にはよくあることなんだろう。

ただ、子供の頃の些細なことに思えることでも、意外と大人になって尾を引いていたりすることがある気がする。

もうひとつ思い出したこと。ヘリコプターの音を口真似をする時は、だいたい「バラバラバラバラ」とかだろうけど、「バンダンボンドンバンダンボンドン」と表現する子がいた。独創的でカッコよく思えた。いいなぁと思った。これ、ずっと誰かに言いたかったんだけど、どういう話の流れで喋っていいかわからないな。

人のちょっとした言動を羨ましいと思うことがあった。その人になりたいと思うことがあった。そして自分はその人になれないんだと思うことが残念に思えた。ただ、それが強い嫉妬のようなものにはならなかったように思う。自分が自分でしかないことを、ただ残念に思っていたような気がする。まあ、今思えばそう感じていたと思うだけで、子供の頃はそこまではっきりと意識していなかったとは思うけど。

自分が自分であることを受けいれるとはなんだろう。おそらくそういうことは人を羨ましがったりあこがれたりすることと無関係ではないと思うが、他人を羨やましいと思う人が、自分を受け入られていないとも言い切れない気がする。そして、まるっきり疑いなく自分を受け入れられる人なんかきっとどこにもいないだろう。

あこがれは向上心につながる。ただ、他人の芝生ばかり青く見えていると停滞してしまう。僕はきっと他人の芝生が青く見える方の人間だった。青く見えるあまり、自分の持っていないものばかり意識してしまっていたのだ。僕は自分の持っているものを見るべきだった。僕はバターナイフの表と裏を使える、というものをもっていたのだ。

ふと思うこと、感じるものが自分の傾向につながっていたりする。自分はなぜそう思うんだろうと考えると、目の前に立ちはだかっていた壁の正体も意外とわかってきたりするものだ。バターナイフは長年の年月を経て、自分にとっての壁の存在を指し示してくれた。

そう考えると、些細なことでも何かしら意味を持っていると思える。日常の細部に気をつけていきたいと思えてくる。自分はなぜそう思ったり感じたりするんだろうと考えると、自分の弱点もわかってくる。わかってくることと、克服できることはまた別の話だけれど。

普段はあまり意識しないことかもしれないけど、自分が何を持っているかに気がつけるかどうかは生きていく上でとても大きなことだと思う。自分でも思ってもいないものを持っていることもあるし、持っていることにうすうす気づいていても自分ではっきりとは意識していないものもある。

自分が何を持っているか、持っていないかを意識することは、自分の可能性を広げるものでもあるし、可能性を限定するものでもある。そして人生は意外と限定的だ。だからこそ自分の限定的な可能性に対してぐらい、限りない可能性を感じてもいいんじゃないだろうか。

バターナイフの話から、なんだか大げさな話になってしまった。

私の村上春樹クロニクル 第1部

bird

20代前半までまともに本を読んだことがなかった。

僕が始めて読破した小説は村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』だった。たぶん24歳の時。書きながら思ったけど、岡本太郎の本に出会ったのも24歳だし、24歳が僕のひとつの転換点になっている気がする。

『ねじまき鳥クロニクル』を読んだきっかけは、たしかレディオヘッドだったと思う。(2003年サマーソニックのレディオヘッドは最高だった!今思えば24歳の年は特別だった)アルバム『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』 のライナーノーツの中で、レディオヘッドのボーカルのトム・ヨークが『ねじまき鳥クロニクル』について語っているのが書かれていたのがきっかけだったと記憶している。

当時小説なんかには全く疎くて、村上春樹という名前はなんとなく聞いたことはあるけどほとんど知らなかった。だからまあ、ちょっと読んでみようと思って買ったんだったと思う。たしか。

そうしたらもう面白くて、すっかり村上春樹のファンになってしまった。他の本も次々と買って読んだ。なんというか、自分が考えたいことがそこに書かれているような気がした。

でも、最初に読んだ時に、自分はすごく面白く感じるけど、こんな風に考える人は世間ではあまり好かれないだろうな、と思ったことを覚えている。僕はそれまでそういう小説や本に触れてこなかったので、内面的な描写や深い表現は、人から嫌がられることだと思っていた(こんな小説を書いたり、読んで喜んでるやつは自分も含めて変態なんじゃないか、とちょっとは思ったかもしれない)。そういう世界があるのを知らなかった。はっきり言って世間知らずだった。そんな感覚だったので、失礼ながらそんなに売れている作家だなんて思いもつかなかった。

その後いろいろ調べてみると、かなりの有名人ということを発見して、自分がいかに世の中を知らない遅れた存在なのかを実感した。そしてしばらくして、自分の中での村上春樹の小説の主人公像と、周りや世間で言われる主人公像が少し違っていたのに気づいた。

僕の中での村上春樹の小説の主人公は、地味で無口で、他人から見ると特にパッとしない、実直に我が道を行くタイプのように感じていた。

だけど、村上春樹の小説を読んだことのある人の話や、ネットなどでの感想を見ると、主人公はクールで、都会的で、キザ、女性にモテる、シティボーイ、などの意見をちらほら見たので、本当に驚いた。そういう見方になるのか、と。まったくそういう見方で読んだことがなかった。人によって見えている世界は違うんだなと改めて思った。

『ねじまき鳥クロニクル』は初めて読んだ小説にして、一番繰り返し読んだ小説だと思う。文庫の背表紙の持つ部分が白く磨り減っている。その頃はよく、ベックの『シー・チェンジ』を聞きながら、近所のドトールで読んでいた。今思えば、その時期はいろんなことをやろうと思う反面、結構落ち込んでいた時期なのかもしれない。落ち込んでいたというか、深いところに沈み込んでいたような気もする。

そして、なぜそんなにこの小説にはまってしまったかと思うと、この小説は自分の内面を深く掘り下げていくことを教えてくれた、ということがすごく大きいと思う。すごく重層的に書かれているし、簡単には理解できない。理解しきれない、という所がすごく大きい。自分自身の内面だって簡単に理解できない。

トム・ヨークはこの本を例に挙げて、ムラカミの本のテーマはダークな力について書かれている、とインタビューで言っていたらしい。人にとり憑いて内面から悪に変えてしまうダークフォースを描いていると。

僕もその辺の見方は正しいと思っている。村上春樹の本は人間の内面を主体にして、それを掘り起こして書いてあると思う。それが小説の中でいろいろな形をとって現れている、そんな感じがする。

ダークな力というのは、誰でも持っているものなんじゃないかと僕は思っている。そのダークな力をいかに消化し、いかに良い方向に持っていけるか、というのが人間の成長に関わっているような気がしている。そして気を付けないと、人は自分でも気がつかない間にダークな力に飲み込まれてしまうのだ。

この本に10代の時に出会えてたらなと思ったこともあるけど、20代でも出会えて良かったんだ、と今は思える。ダグラス・クープランドの『ジェネレーションX』に書いてある二十歳代中期挫折(改めて自分と社会との関係性を意識する時期、のような)が自分にあったとするならば、間違いなく支えになってくれた小説だと思う。

『ねじまき鳥クロニクル』は僕の中で未だに一番好きな小説である。

(第1部とタイトルに書いたけど、第2部があるかどうかはわからない)