なるべく気負わずに、やるべきことをやっていこうと思っていたものの、やっぱりどこか頭が緊張しているらしい。コロナそのものの不安もあるけど、自分もどうなってしまうかわからないという世の中の動きに対する緊張感があるのかもしれない。
茨城のり子さんの詩に、日常をふと離れる瞬間が必要だという文がどこかにあったような気がするけど、こういう日常だからこそ、意識が日常を離れるのもまた難しい。
最近は外に出ることといえば、ちょっと買い物に行くか家の周りを散歩するぐらい。いかに日常の気分転換が必要だったかを痛感する。でも、こういう日常だからこそ、意識が日常を離れることがさらに必要になってくるのかもしれない。
不安や恐怖に支配されてしまうと、本当は出来るはずのことも出来なくなってしまう。この先どうなってしまうんだろうという不安はよぎったりするけど、今この瞬間を不安に手渡してしまえば、未来はその不安の結果を律儀に送ってくるに違いない。
今の状況に限らず、大事なのは反射的に恐怖に反応するのではなくて、それをいかに自分の日常や考えに落とし込んでいくかなのかもしれない。まずは自分は不安だということを認めること。そこからはじめて今という日常を生きれるし、日常を離れることもできる気がする。
今というものを生きるためには、時には未来や過去にも目を向ける必要がある。今の自分を邪魔しているものは、今の状況なんだろうか。もしかしたら過去でつまずいたものもあるかもしれない。
過去を正しく見るのも難しい。過去にこそ不安や恐怖で歪められてしまったものがあるからだ。そしてその過去の不安や恐怖は今という時間も脅かす。それを解消していくには少しずつ自分の感覚で不安を認め、納得させていくしかない。
その不安は間違ったものだと少しずつ自分を納得させていく。でも間違ってインプットされてしまったものを上書きするのは簡単じゃない。人間は見たくないものからは目を背けるように出来ている。
かといって、不安や恐怖から目を背けて見ないふりをして、自分は不安なんか無いと言い張るのはさらに良くない。自覚がないと振り返ることが出来ないし、きっと自分の抱えている問題は良くならないまま続いて行くだろう。
自分を動かしているものは何か、それを知ろうとする中にやるべきことが見えてくる。そしてその答えはすぐに見つかるものじゃないということも知っておく必要がある。人間はどうしても白黒はっきりつけたくなってしまう。安易な答えに飛びつくことは、目を背けてしまうこととそんなに大差がない。
僕は世の中の人がひとりひとり、自分と向き合うということが必要なんじゃないかと思っている。もちろん世の中を変えようという呼びかけや動きは大事だけど、僕はひとりひとりが自分と向き合うという行為が特に大事だと思っている。
世の中には内側から変わっていく部分と、外側から変わっていく部分があるはずだから。