自分なりの関わり方

ニュースを見れば、これでもかというぐらい嫌なものが目に入ってくる。

まったくうんざりすることばかりだけど、今を生きていかなきゃいけない。僕も明日は我が身だと思いつつ、とにかくいろんなことを試したり考えたりしながら、必死に生きています。

ところで、いつも災害などが起きた時に思い出すのが、日本人のあり方と政府の対応についての河合隼雄さんの話だ。※河合隼雄さんの話ばかりで申し訳ないけど、僕にとって物事を考える上での基礎を形作っている方なので。

阪神・淡路大震災の時に外国の人に言われたという話。あれだけの災害の混乱の中で、被災地の市民が暴動や略奪を起こしていないということを、すごく褒められたらしい。だけど逆に政府の対応の遅さはなんだ、ということを言われたということだった。

みんなが暴動も略奪もしないということと、政府の対応が遅いというのは、ひょっとしたら日本人の同じ心のあり方から来ているのではないかということです。つまり日本人の良い面と悪い面が出ているという風に思いました。

『「日本人」という病』河合隼雄

詳しくは本を読んで欲しいけど、河合さんは、大きく分けると西洋は「個」のアイデンティティで動いていて、日本は「場」のアイデンティティで動いているということも言っている。「場」とは、家庭や会社、学校などの、その場その場で出来る集団を指す。

日本人は自分の属する集団へのつながりの意識が強い反面、個人の判断で決断するということが弱いという内容の話だった。個人の決断の弱さは対応の遅れを生む。

どんな物事にも良い面と悪い面はある。つながりの意識が強い日本では、落とした物が返ってくるとか暴動や略奪が少ないなどの良い面があるが、悪い面が出るとそれが「場」として強固に出てしまうんだろうか。

だから、アメリカの悪い面はトランプという「個」の形で強く出たけど、日本の悪い面は政府や役人の「場」で強く出てくるのかなとも思ったりする。

でも、河合さんはこういう内容のことも言われていた。何かに対して批判的になろうとする時、「自分」を抜きにして考えてしまいがちなので、気をつけなければいけないと。簡単に言うと、自分は悪くないけどあいつが悪い、というパターンに陥ってしまいがちなんだと思う。

それは、批判するのが悪いとか、あいつだけじゃなくて自分も悪いとか、そういう意味ではなくて、何かに批判的になるとしても、その上で自分が何をするか、どういう生き方をするかなんじゃないだろうか。

自分に出来ることは微々たることかもしれないけど、ある意味、自分が変わるということは世界が変わるということに等しい。

河合さんの所にカウンセリングに来た患者さんが、「私は社会の役に立っていない」という悩みを言った時に、河合さんは「とんでもない、あなたが僕の所に来たことがどれだけ社会の役に立っているか」ということを言ったそうだ。僕はこの話が好きだ。

社会への関わり方も人それぞれだし、特別大きなことをしようとしなくても、自分なりの関わり方があるんじゃないかと思っている。

非人情の世界

tree and bird

創作をしていると「こんなもの何の意味があるんだろうか?」という気持ちになることがある。何故かはわからないが、自分の作ったものが決定的に無意味に思える瞬間がある。

きっとそういうのは錯覚なんだろう。だけどその錯覚はどこからくるのか。

何かを「無意味」だと思うなら、それは一方的に見た目線からの「意味」にやられているんだろう。自分の意識で考えられることなんかたかが知れているし、だいたい自分のやることに意味を求めすぎるとろくなことがない。

だけど人間って錯覚の生き物だなと思うのは、疲れているときは全くダメに思うことがあっても、風呂に入ってサッパリした後は全然気にならなかったりするから。別に自分以外は何も変わっていないのに。

そんなの当たり前だって思うかもしれないけど、意外と人間ってその「意味」にやられている瞬間はわからなくなる。人間はその瞬間瞬間で忘れる生き物だ。忘れるから生きていけるけど、忘れすぎると不便だ。そのあたりのバランスが必要なのかもしれない。

「何の意味があるんだろうか?」という一見ネガティブな思いが、そんなことは錯覚だから無駄だとは思わない。そのバランスをとろうとする振り幅を通じて、心の動きを知る事がきっと大事なんじゃないだろうか。

そう考えると、錯覚の中にも意味があるような気がしてくる。なんだ結局意味があったんだ。

最近、寝る前に夏目漱石の『草枕』を何日もかけて読み返した。寝る前だから少しずつ。ちなみに表紙の安野光雅さんの絵も好き。

以前はこの小説は古風で装飾の多い文章が多くて苦手だったんだけど、今は難しい単語の意味がわからなくても、文章の流れがなんだか心地よく感じた。この本は考えるというより、感覚で読む本なのかもしれない。

この小説は、絵描きである主人公が「非人情」の旅に出るという話だ。こう書くと意味がわからないけど、この「非人情」は冷たく人情が無いという意味ではなくて、人の世の煩わしさから離れるという意味だろう。

自然や情景の描写が多いのもそのためかもしれない。自然は「非人情」の世界だ。都市が「人情」だとすれば、自然が「非人情」か。頭で考えて意図して作られたものは「非人情」ではない。

人の意識にも「非人情」の世界が関わってくると思う。だから冒頭に書いた「こんなもの意味があるんだろうか?」という思いも、きっと僕が「非人情」の世界から離れてすぎているからなんだろう。「非人情」が「人情」にやられている。

意識や意図も大事だが、意識だけでカッチリ作られた世界は息苦しい。これは養老孟司さんの言う、今の時代は人に意識が行き過ぎている、というのにもつながると思う。

世の中には「人情」も必要だけど「非人情」も必要なんだろう。

頭で考えた世界観

ONNOONNO

世界がどんな状態にあろうと、従わないといけない「経済」というファンタジーって一体なんだろうと時々思う。

世の中はそう出来ていると言ってしまえばそれまでだけど、その価値観に必死にしがみつくのも、それをバッサリ切り捨てるのも違う気がする。

そして、お金は世の中を動かすには大事だけど、世の中全体の緊急時にそれを補うシステムが上手く働かないのはどうしてだろうと思ってしまう。

世の中は社会というファンタジーで出来ている、と僕は思う。それはファンタジーだから軽く見てよいという意味ではなくて、一歩引いてみれば別の軸の価値観や世界があるということを知っておくことが必要ではないかと思うからだ。

そういうものが哲学と呼べるものに含まれるのかどうか、僕にはわからないけど、とにかく一面的に捉えた世界は息苦しい。

国のトップにいる人たちは、大局観というか、大きな視点を持つことは出来ないんだろうか?一体この状況は何なのだろうか?そんなことを考える。

この前、夏目漱石の『私の個人主義』を読み直した。改めて読んでいくうちに、非常に痛快な箇所があった。

第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。

夏目漱石『私の個人主義』

こういう事がもう少し考えられれば、もう少し世の中は良くなるんじゃないかと思ったりもする。権力と金力に付随する義務と責任。これは明治時代の言葉だけれど、この言葉の必要性は全く今も変わらないと思う。

特に今は「頭」で考える時代だ。そういう時代の問題点は、頭で考える以外の世界観を忘れてしまうことだと思う。

頭で考えることは重要なんだけど、人間には「体」がある。体は心とつながっている。頭で考えることに偏れば、体と心は忘れられてしまう。そして頭で考えた世界観は一面的になりやすい。

養老孟司さんは「脳化社会」ということを言っていたが、体を忘れがちな時代なんだと思う。

最後にもうひとつ、なんだか笑えない箇所を引用したい。

国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。

夏目漱石『私の個人主義』