「差異」が細かく分けられていく

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最近、久しぶりに養老孟司と宮崎駿の対談本『虫眼とアニ眼』を読んだ。非常に面白かった。本を読み直すことの良い所は、以前わからなかった事が少しわかるようになっている所だ。

この本は1997年から2001年にかけての数回の対談が乗っているので、20年ぐらい前の内容だけど、この対談の中で危惧されていることが今の時代にさらに当てはまるような気がしてならない。

この本の中で養老さんが言っていたことで、人間は自然の「差異」を見分ける能力があるけど、今はその能力が人間の「差異」を見分ける方向に向いていると言っていた。これはなんだか納得できた。自然と人間が切り離されて、意識が人間に向き過ぎている。

ところで、僕はお笑いは好きで結構見てたんだけど、最近はあまりテレビでお笑い番組を見なくなってしまった。見るとしたらYouTubeなどで好きな芸人を少しずつ見る。

というのも、お笑い番組やバラエティ番組などを見ていてなぜかしんどくなることが多かったから。なにかが息苦しいような気がする。

そこで「差異」の話なんだけど、お笑いには当然ツッコミがあって、ツッコミっていうのは人間の「差異」を拡大して笑いに変えるという部分があると思う。

昔からお笑いを見ているので、もちろんボケとツッコミはあって良いと思うんだけど、なんだか最近はツッコミという役割が拡大されているような気もする。ツッコミによって人間の「差異」がどんどん細かく分けられて、それを拡大して見せられているような感覚と言えばいいだろうか。

「差異」を見つけたら笑いに変えなければならないから、どんどん人間に対する見方が細かくなっていく。最近ではお笑い芸人だけじゃなくいろんな人がツッコミをするから、さらにみんなでツッコみ合うパターンがコミュニケーションのセオリー化しているような気がして、なんだか息苦しく感じてしまう。

僕としては「差異」を一気に拡大して見せられるよりは、ジワっと感じさせてくれる方がイメージも広がるし面白いと思ってしまうんだけど。どうだろう。

昔のコントで言えば、ドリフ大爆笑でのいかりや長介のスタイルは派手にツッコむんじゃなくて、ただ戸惑ったりする客っていうのが今思えばなんだか良かったなと思う。

今はなんでも分かりやすい方がうけるから、あまり流行らないのかもしれないけど。でも少しはそういう流れがあってもいいと思うな。

いや、そうは言っても面白いツッコミは好きなんだけど、たぶん過剰なのが嫌なんだと思う。