もっと若い頃には、社会には確固とした基準があって、極めてシステマチックにその基準に乗るか乗らないかで物事は決まると思っていた。
世の中の価値観や、物事、システムは動かしがたく出来上がっていて、そこから外れた人間はダメなんだと。でも正確に言うと、そう思っていたと言うより、そういうことに対する疑問すら思い浮かばなかった。
今になって改めて思うけど、世の中って意外といい加減で、思いつきで、流動的だ。だけど社会的な価値観は強固に見えてしまう。
僕は自分を出すということが苦手だった。それはきっと自分が社会という基準に満たないんではないかという劣等感も手伝っていたのかもしれない。自分には世の中にさし挟むことが出来るものなんてないんじゃないかと思っていた。
実際、僕はいろんな意味で世の中にとって劣等生だった。でも、もしそうだったとしてもそれは別の意味では錯覚だったんだろう。どういう視点から見るかで評価はガラリと変わってくるし、自分がどういう軸で立っているかで世の中の見え方は変わってくるからだ。
世の中の見え方が変われば自分という人間だって変わってしまう。文字通り、自分が変われば世の中は変わる。
この前、外国人の人が90年代の東京の風景を撮影したものをYouTubeでたまたま観た。そして90年代から2000年にかけてを少し思い出すことになった。
90年代には僕は10代だった。今思えば、あのころはインターネットも出始めていたけど、世の中の情報量は今より圧倒的に少なかった。でもなんと言うか、今の時代ほどの息苦しさはなかったように思う。
多くの人にとって10代は、色々な価値観や物事を吸収する時代だと思うけど、思い返せば自分にとっても多くの基礎になる時代だった。でも、だからこそ10代には10代のキツさがある。世の中と自分の立ち位置を見定めるのが難しい時代だ。
90年代後半に僕はロックを聴き始めた。世の中に対するカウンター的な価値観というか、そういう受け皿がそのころのロックにはあったんだろう。
その後、僕はオルタナティブ・ロックにはまっていった。世の中の価値感に変わるもの、まさにオルタナティブ。そこに自分自身を当てはめられる時代だった。おそらく多くの人がそうであったように、僕はLoserでCreepだった。
そういう時代を過ごせたのはある意味では幸せだったのかもしれない。でも90年代がとにかく素晴らしい時代だったかというと、そうは思えないんだけど。
僕自身、LoserでCreepであることを誇りにできる時代はとっくに終わっているし、今は自分自身の価値観で物事を打ち立てていかなくちゃならない。
今は世の中が内向きで息苦しい時代なので、人それぞれ自分にとっての世の中に対するカウンターというものが特に必要なんじゃないかと思う。そういうものが人に厚みを与えるんじゃないだろうか。
世の中をうまく立ち回るということも必要だとは思うし、ある程度合わせることも必要だ。だけど、うまく生きるいうことばかりが能じゃない。養老孟司さんは「どん底に落ちたら、掘れ」ということを言っていたらしい。僕はとにかく掘りたい。
世の中とズレていると思えば、自分を突き詰める以外はない。今は本気でそう思える。