周りが大きく動いている時、一歩引いた所から眺める癖がある。
そこでは当たり前に思えることを遠くから眺めて、その力の外にはどんな大きい力と流れがあるんだろうと考えてしまう。
世の中は関係性で成り立っている。どの人もあらゆる関係性から独立した人なんかいない。そういった関係性を無視するということは、自分というものも無視することになるような気がしている。
夏目漱石の『私の個人主義』の中に、権力と金力(お金の力)を使える者は使い方によっては危険なので、使う者はよく考えなくちゃいけないという内容のことを言っていた。力を使える者はその力を使うことに責任を持たなくちゃいけない。
そして、The Flaming Lipsというアメリカのバンドに、”The yeah yeah yeah song (With all your power)”という曲があって、歌い出しはこう歌っている。
もしスイッチ一つで世界を吹きとばすことができたら
ザ・フレーミング・リップス『ヤー・ヤー・ヤーの歌(君にあるパワー)』
君はそうする?
もし自分が金持ちになれるように他のみんなを貧しくできたら
君はそうする?
君にあるパワーというと、あなたの中に秘めたパワーというか、ポジティブな力の歌に聞こえるけど、これの曲は権力と金力の使い方を歌っている歌だと思う。
力を使える者は、弱者を自由に支配できるわけじゃなく、責任がある。どんな上下の関係性でも力を行使する対象には敬意を払わなきゃいけない。そして、支配しきれるものなんてどこにもない。もし自分が何かをコントロールできていると思っていても、逆にその対象からは必ず影響を受けている。すべての人は関係性の中にいる。
自分でも他人でも、もし何かを力づくで抑えているとしたら、いつかは何かしらの反発がある。力は流れさせなきゃいけない。流れをせき止めればいつかは氾濫する。
でももし、抑える力の外で本当に何かを自由にやろうと思ったら、またそこには責任が生まれてくる。自由に、流れをせき止めずにやろうと思うからこそ、いろいろな面倒臭いことも引き受けなければいけない。だからこそ覚悟がいる。自由を手に入れようと思えば、やむにやまれず覚悟が出てくる。
自由にやるということは、動機の自発的な動きもあると思うけど、やむにやまれず追い込まれるということが大きいような気がしている。
責任は他人に対してだけじゃなく、自分に対してこそ大きくある。自分に対して下手なことができないと思うからこそ、他人に対しても下手なことはできない。そう考えていくと、どう行動していくかのポイントが少しずつ見えてくる。
何かを引き受ける覚悟がなければ、すべては水の泡。少しの嘘が嘘を重ねて、嘘をつき続ける羽目になる。しまいには自分でも何が嘘なのかわからなくなっていく。
自分は何がしたいのか、どうあるべきなのか、人間は関係性の中にしか生きられないとしたら、その関係性の中にボヤッと浮かび上がる瞬間が自分なのかもしれない。でも、それすら掴み所がない。ひとつだけ僕にわかることは、僕は権力も金力も持っていないということだ。
思いつくままに文章を書いているから、何が言いたいのかはわからない。だって自分のことは自分がいちばんわからないんだから。