頭で考えた世界観

ONNOONNO

世界がどんな状態にあろうと、従わないといけない「経済」というファンタジーって一体なんだろうと時々思う。

世の中はそう出来ていると言ってしまえばそれまでだけど、その価値観に必死にしがみつくのも、それをバッサリ切り捨てるのも違う気がする。

そして、お金は世の中を動かすには大事だけど、世の中全体の緊急時にそれを補うシステムが上手く働かないのはどうしてだろうと思ってしまう。

世の中は社会というファンタジーで出来ている、と僕は思う。それはファンタジーだから軽く見てよいという意味ではなくて、一歩引いてみれば別の軸の価値観や世界があるということを知っておくことが必要ではないかと思うからだ。

そういうものが哲学と呼べるものに含まれるのかどうか、僕にはわからないけど、とにかく一面的に捉えた世界は息苦しい。

国のトップにいる人たちは、大局観というか、大きな視点を持つことは出来ないんだろうか?一体この状況は何なのだろうか?そんなことを考える。

この前、夏目漱石の『私の個人主義』を読み直した。改めて読んでいくうちに、非常に痛快な箇所があった。

第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。

夏目漱石『私の個人主義』

こういう事がもう少し考えられれば、もう少し世の中は良くなるんじゃないかと思ったりもする。権力と金力に付随する義務と責任。これは明治時代の言葉だけれど、この言葉の必要性は全く今も変わらないと思う。

特に今は「頭」で考える時代だ。そういう時代の問題点は、頭で考える以外の世界観を忘れてしまうことだと思う。

頭で考えることは重要なんだけど、人間には「体」がある。体は心とつながっている。頭で考えることに偏れば、体と心は忘れられてしまう。そして頭で考えた世界観は一面的になりやすい。

養老孟司さんは「脳化社会」ということを言っていたが、体を忘れがちな時代なんだと思う。

最後にもうひとつ、なんだか笑えない箇所を引用したい。

国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。

夏目漱石『私の個人主義』