気持ちの切り替わる区間があるように

dog run

自分の中でなんとなく決めていることがある。SNS上になるべく仕事の愚痴は書かない、冗談っぽくでも自分のことを卑下した事は言わない、等。それをするべきではないと言いたいわけじゃなく、自分はそれをなるべくしないということ、一応。

美学といえば大げさになるけど、自分なりの考えがあって、自分なりの行動原理がある。でももしかしたら、そういうことで人からは傲慢に見えることがあるかもしれない。

やりたくない事はどうしても出来ない。納得いかない事は続けることが出来ない。

自分を良く見せようとしたり、低く見せようとしたりする行為が苦手だ。もちろん処世術としてそういうことがあるというのは知っているけど、僕には出来そうにない。

昔、数ヶ月だけ入った職場で、あるゴタゴタで揉めた時に、上の人から「ストレートなのはいいけど、それは諸刃の剣にもなるぞ」と言われたことがある。

そういうことを言われても、僕は自分を変える気はなかった。自分が絶対正しいとも思わなかったが、間違っているとも思わなかった。

そういうことを言われたからというわけではないが、結局僕はその人をあまり好きにはなれなかった。

でも、自分に出来ない事は出来ないからしょうがないじゃんと、すぐに開き直れたわけじゃなく、長年自分のそういう不器用で曲げられない部分に悩んできた。そしていろいろ本を読んだり、考えたりしてきた。

今となっては、そういう自分で良かったんだと思える。僕はまったく要領良く生きることができないし、たくさん悩んだけれど、自分を曲げないで良かったと思えるようになった。

いろいろ難しく考えていても、本当に必要なものは足元に転がっている。物事の良い部分と悪い部分は表裏一体で、悩みの裏側には答えがあることが多い。

気持ちの角度を変えてみると、さっきまで曇っていた心が急に晴れたりする事はないだろうか。

電車で通勤している頃にたまに経験したけど、電車に乗って景色を眺めていると、まるで気持ちの切り替わる区間があるように、さっと気持ちが晴れる瞬間がある。

上手く生きられるということと、自分自身が充実して生きる事は、必ずしも一致していない。でも上手く生きれないと、人生は充実はしづらい。

でもそこは、どっちかを選ぶというものではないような気が最近はしている。二つの価値観が対立するわけじゃなくて、どこか見落としているものがあるからこそ、どっちかしか道が無いように見えてしまうことがある。

対立しているように見えるものの中に、矛盾に見える中にまた別の道がある、と思うと目の前が開けるような気がしないだろうか。