言葉にならない『あしたのジョー』

boxing

新しいマンガを読まなくなってどれぐらいになるか分からないけど、ほとんど、というか最近ではまったくマンガを買わなくなった。もう何年もマンガを買ってないかもしれない。

元々、子供の頃は人並みにマンガが好きで読んでいたけど、特にいろんなものを読むようなマンガ好きではなかった。

今自分の持っているマンガは、『ぼのぼの(途中まで)』『あしたのジョー』『風の谷のナウシカ(原作)』『ブラックジャック(これはもらったんだった)』というまったく統一性のない組み合わせ。これさえあればいいかな、というのが残った感じ。うちの奥さんはもっといろんなマンガを持っているけど。

それでも、今までで一番繰り返し読んだマンガが『あしたのジョー』だと思う。自分が生まれる前のマンガだし、初めて読んでからたぶん15年以上経つんだけど、未だに繰り返し読んでしまう。当時働いていた会社の先輩(バンドの先輩でもあった)に勧められて読み出したのがきっかけだった。

『あしたのジョー』にはいろんなものが詰まっている。

ジャンルとしてはスポ根って言われるのかもしれないし、倒されても倒されても立ち上がるジョーの不屈の精神みたいな例えに使われるのも見たことがあるけど、このマンガのテーマはいわゆる精神論や根性論だとは僕にはどうしても思えなかった。

前半はスポ根のような熱いニュアンスがあったりするが、後半に進むにつれて徐々に変化してくる。特にジョーの目つきが変わってくる。何かを悟ったような、覚悟を決めたような顔つきになってくる。

このマンガに精神的なことが大きく関わっているのは事実だけど、僕はジョーの背負う悲しみのようなものを感じてしまう。ジョーのボクシングを続ける姿勢が、自分はそういう風にしか生きられないという悲しみと表裏一体な気がしてならない。

その覚悟と悲しみのようなものに惹かれてしまう。ある意味、不合理とも言えるジョーのボクシングを続ける姿勢に、なぜ惹かれてしまうのだろう。

ジョーは単に勝つためにとか、成功を掴むためにボクシングをやるのではなくて、ボクシングを通じて、宿命とも言える生き方を貫いている。それはジョーが選んだ道でもあるけれど、違った見方をすれば選びようもないことなのかもしれないと思えてくる。

ジョーはボクシングというものに選ばれてしまった、自分でそのことをわかっていたんじゃないだろうか。だけど、何回読んでもジョーの気持ちが本当には・・・・わからない所が作品の奥深さでもある。

そして、「立つんだジョー!」という丹下段平のセリフが有名だけど、実際にそのセリフはそんなに出てこない。むしろ段平は後半で「立つな!」と言う方が多いような気がする。さらに、ボクシングにのめり込んでいくジョーをあれこれと引き止めようとするくらいだ。

ジョーの不屈の精神というイメージだったり、「立つんだジョー」というセリフを元にした根性論にしてしまう方がイメージ的にシンプルでわかりやすいからそのセリフが有名になるんだろうけど、全然そんな単純な話ではなく、とても人間模様が複雑で奥深い。いろんな人のいろんな生き方が見える。だから何回読んでも発見がある。

そんな中で僕が一番好きな登場人物は、ジョーがボクシングのドサ回りをする中で出てくる、稲葉くめろうという人物である。

稲葉粂太郎は元々は華々しいプロの選手だったが、今はボクシングのドサ回りで生活をしている。口数は多くないが仲間からは一目置かれている存在で、ドサ回りの仲間から嫌われるジョーのことを唯一分かっている人物。

自分の人生が上手くいっていないと思えば人の足を引っ張りたくなるものだ、特に仲間から外れた存在に対しては。だが稲葉粂太郎はプロからドサに落ちてはしまったが、最終的にはジョーがプロの世界に戻るために背中を押すことになる。

その背中の押し方が粋でとにかくかっこいい。「男は黙って…」みたいな価値観かもしれないけど、そういう黙って何かをやる人物ってやっぱりかっこいいと思う。詳しくは書かないけど、このあたりのシーンが『あしたのジョー』で一番好きかもしれない。

『あしたのジョーに』には言葉にできない、不可解な魅力がいっぱい入っている。今の時代に足りないものは、そういう言葉にならないもののような気がしてならない。