日常を離れる

20200506

なるべく気負わずに、やるべきことをやっていこうと思っていたものの、やっぱりどこか頭が緊張しているらしい。コロナそのものの不安もあるけど、自分もどうなってしまうかわからないという世の中の動きに対する緊張感があるのかもしれない。

茨城のり子さんの詩に、日常をふと離れる瞬間が必要だという文がどこかにあったような気がするけど、こういう日常だからこそ、意識が日常を離れるのもまた難しい。

最近は外に出ることといえば、ちょっと買い物に行くか家の周りを散歩するぐらい。いかに日常の気分転換が必要だったかを痛感する。でも、こういう日常だからこそ、意識が日常を離れることがさらに必要になってくるのかもしれない。

不安や恐怖に支配されてしまうと、本当は出来るはずのことも出来なくなってしまう。この先どうなってしまうんだろうという不安はよぎったりするけど、今この瞬間を不安に手渡してしまえば、未来はその不安の結果を律儀に送ってくるに違いない。

今の状況に限らず、大事なのは反射的に恐怖に反応するのではなくて、それをいかに自分の日常や考えに落とし込んでいくかなのかもしれない。まずは自分は不安だということを認めること。そこからはじめて今という日常を生きれるし、日常を離れることもできる気がする。

今というものを生きるためには、時には未来や過去にも目を向ける必要がある。今の自分を邪魔しているものは、今の状況なんだろうか。もしかしたら過去でつまずいたものもあるかもしれない。

過去を正しく見るのも難しい。過去にこそ不安や恐怖で歪められてしまったものがあるからだ。そしてその過去の不安や恐怖は今という時間も脅かす。それを解消していくには少しずつ自分の感覚で不安を認め、納得させていくしかない。

その不安は間違ったものだと少しずつ自分を納得させていく。でも間違ってインプットされてしまったものを上書きするのは簡単じゃない。人間は見たくないものからは目を背けるように出来ている。

かといって、不安や恐怖から目を背けて見ないふりをして、自分は不安なんか無いと言い張るのはさらに良くない。自覚がないと振り返ることが出来ないし、きっと自分の抱えている問題は良くならないまま続いて行くだろう。

自分を動かしているものは何か、それを知ろうとする中にやるべきことが見えてくる。そしてその答えはすぐに見つかるものじゃないということも知っておく必要がある。人間はどうしても白黒はっきりつけたくなってしまう。安易な答えに飛びつくことは、目を背けてしまうこととそんなに大差がない。

僕は世の中の人がひとりひとり、自分と向き合うということが必要なんじゃないかと思っている。もちろん世の中を変えようという呼びかけや動きは大事だけど、僕はひとりひとりが自分と向き合うという行為が特に大事だと思っている。

世の中には内側から変わっていく部分と、外側から変わっていく部分があるはずだから。

進むべき時と退くべき時

20200424

こんな時は何をすればいいんだろう。僕自身はこれからのことも考えながら日々を送っているけど、自分の作るべきだと思うものを少しずつ作っていくしかない。これはコロナウイルスがあろうとなかろうと、変わらずやっていくしかない。

でも、これだけ大きなことになってくれば心境にも変化はあるし、状況にも変化が出て来る。だけど自分にとって大事なことは見失わないようにしたい。大事なことはそんなに多くはない。

もしなにか不安やイライラがあるとしたら、一体なにが問題なのか、自分が今見えていないものは何かを考えてみる。焦りが「今そんなことをやっている場合か」と急き立ててくる。

ひとつのことをやっていると、行き詰まることがある。そういう時は、そのやっていることから少し距離や時間を置いてみて、また戻ってみたときに、やるべきことが見えて来ることがある。

どうしても考えてしまって、距離を置くのが難しい時は別のことをやってみる。するとどうしても頭は別のことに持っていかれるから、自然と距離を置くことができる。人の頭には、進むべき時と退くべき時があるみたいだ。

集中して進む時は頭の中の枠組みがぐっと引き締まっていく、退く時は枠組みが広がって視野も広がっていく。その繰り返しでしか人は進めないのかもしれない。そして常に全てが見えている人なんてどこにもいない。

ところで、ずっと気になっていたミヒャエル・エンデの『モモ』を寝る前に少しずつ読んでいる。児童文学とはいっても、すごく面白い。

大人たちが時間を節約するように時間どろぼうから言われ、時間を節約すればするほど時間がなくなっていくっていう本末転倒な話。現代そのまんまな気がしてちょっと笑えない気もする。そして登場人物の言葉や行動が、今の状況とも関わりがあるように思える。時間どろぼうというのは、世の中にあふれる情報でもあるような気がする。

なんというか、人間というものをもっと知らないといけないという気にさせてくれる。今の状況だって、人間にとっては脅威かもしれないが、世の中がストップしているおかげで空気はきれいになっているから地球にとっては良いことなのかもしれない。

人間の世の中の問題は人間のあり方の問題なんだろうなとも思う。最近は世の中の目に見えない部分は切り落とされてしまって、具体的で目に見えるものにどんどん変換されていってるような気もする。その切り落とされた方に、大事なことが入っていたりするかもしれないのに。

この先どんなことが待ち受けているかわからないし、たぶん世の中は良くも悪くも変わっていくだろうけど、なんとか生きていかなきゃならない。単純に昔に戻ればいいわけじゃなく、これからのあり方を模索しないといけない。

『モモ』に出て来る大人たちのように、頭で考えることにとらわれて大事なものを見失わないようにしたい。

あんまり合わないんじゃないか

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タバコをやめて、たぶん10年ぐらいになる。たばこ吸い出したのは20歳の時。18歳で働き出してから酒を飲んだりしていたし、法律を特別守ろうという意識があったわけじゃなかったけど、もう大人だしおおっぴらに吸えるなら吸ってみようかなと思った。

タバコを吸って、酒を飲むのが大人の基本だと思い込んでいた。一人暮らしを始めてからは、弱いくせに家でも毎日酒を飲み、ひたすらタバコを吸った。ふかすタイプじゃなくて、強く吸い込まないと気が済まないタイプだったからあまり良くなかった。酒は飲み続けたが強くなる事はなく、飲みに行けば最初の一杯で顔を真っ赤にさせて人をびっくりさせつづけた。

今思えば恥ずかしいが、どうすれば自分を大きく見せられるかという若さゆえの背伸びがあった。でもその中には、人は変わっていかなければいけないという本能のようなものもあるんじゃないかと僕は思う。人は恥ずかしい事を通過しなければ成長できない部分があるような気がしている。なるべく間違いをしないように生きるのは、それはそれで間違いだ。

今ではタバコは吸いたいとは思わない。酒はたまには飲むけど、普段はあまり飲まない。自分にはそれほど必要じゃない、というか自分にはあんまり合わないんじゃないか、ということが少しずつわかってきたからだ。

人は自分に合わないことを思い込みで続けてしまうことがある。合わないと思ったことにさえ、しがみつきたくなることがある。認めるのはつらいこともあるけど、変化するには自分を上書きする勇気が必要だ。

とは言え、色々な職場での喫煙所での雑談も悪いものではなかった。仕事の合間の喫煙所の雰囲気はちょっと他では味わえないもののような気がする。

派遣社員をやっていた時は、おそらく正社員の人たちにとって派遣社員というのはどこかお客様という感じだった。そういう時の喫煙所では、正社員の人とはどこか第三者的な立場で話を聞くことができた。上司に怒られていた若手の人は、「いつも何か怒られるんですけど、いつも納得いかないんですよね」と言った。

ところで、組織や集団っていうのは中に入ってみないとわからないことが多い。それとは逆に、中に入っていると気づかない、外から見ないとわからないこともある。今思えば、派遣社員というのは中と外の中間っていう立ち位置で、なんだか特殊な経験だった。

休憩時間に屋上に行って、缶コーヒーを飲みながらタバコを吸っていた自分はどこへ行ってしまったんだろうと、時々思う。それはそれで悪くはなかったんだけど。