日々アドリブ

tree and bird

ブログは1日の終わりに書くことが多い。少しずつ何日かに分けて書く時もあるし、一気に書き上げる時もある。最近はわりと一気に書く。

テーマをあらかじめ決めて書くのが良いかとも思ったけど、僕の場合は自然と書きながら、ゆるやかなテーマが決まっていくのが良いかと、いつからか思い始めた。文章が自分でも思いもよらない方向に向かって面白いかもしれない。カッチリはしたくない。

頭の中に漠然としたものが渦巻いている状態で、フィーリングに乗っていけば自然と頭の中が整理されていく感覚がある。もう一人の自分が、そうかお前はこういうことを考えていたのか、と言うことがある。

何事も頭で考えすぎると、勢いがなくなってつまらなくなる。計画に沿って進みすぎると「今」がなくなる。もちろん、計画が大事なものごとはあるけど、表現に関しては隅から隅まで完璧に考えられたものより、多少ほころびがあっても隙間がある方が面白いと思う。そして「今」この瞬間を封じ込めたものには生命がある。絵にしろ、音楽にしろ、文章しろ。

この間BSで(そんなにたくさん見ないけど、最近見るテレビは大体BS)、「欽ちゃんのアドリブで笑」という、欽ちゃんがアドリブでコントを指導する番組を見たけど、これが結構面白かった(草彅剛を見たかったというのも多少あった)。欽ちゃんてすごい人だなとも改めて思った。

アドリブはまさに「今」この瞬間を作り出して表現することだから、面白いのかもしれない。きっちり台本があるものだって、細かな瞬間のアドリブというか、「今」の瞬間を作れる人の演技には生命が宿るような気がする。

アドリブって言っても、ただ自分勝手にやればいいというわけではなく、その時その時の流れを感じ取って、それを表さないといけない。「流れ」というのがとても大事なような気がする。

もしかしたら、自分を出すということ自体、その中ではどうでもいいことなのかもしれない。「今」この瞬間を出せば、おのずと自分の表現が浮かび上がってくるのだから。

最近はあらゆる所で、確証のある説明的でカッチリしたことしか出来なくなっていることが、世の中を面白くなくしていると思う。アドリブが入る隙間がなくなっている。

昔はあったような暗示的で不可思議な表現も少なくなっているのは、頭と心の関係が切れてしまって、深い所から表現を掘り起こせなくなっているからかもしれない。作る方も、観る方も。

人間は頭で論理的に考えられるからこそ、生き物にとっては当たり前な「今」がおろそかになってしまう変な生き物だ。瞑想などで「今」を感じるように訓練するくらいだ。

逆に言えば、人は頭で考えることはやめられないんだから「今」を感じる訓練をして、日々アドリブの要素をどんとん取り入れていけば、より良く生きられるんじゃないかと思ったりするんだだけど、どうだろう。

自由を手に入れようと思えば

god

周りが大きく動いている時、一歩引いた所から眺める癖がある。

そこでは当たり前に思えることを遠くから眺めて、その力の外にはどんな大きい力と流れがあるんだろうと考えてしまう。

世の中は関係性で成り立っている。どの人もあらゆる関係性から独立した人なんかいない。そういった関係性を無視するということは、自分というものも無視することになるような気がしている。

夏目漱石の『私の個人主義』の中に、権力と金力(お金の力)を使える者は使い方によっては危険なので、使う者はよく考えなくちゃいけないという内容のことを言っていた。力を使える者はその力を使うことに責任を持たなくちゃいけない。

そして、The Flaming Lipsというアメリカのバンドに、”The yeah yeah yeah song (With all your power)”という曲があって、歌い出しはこう歌っている。

もしスイッチ一つで世界を吹きとばすことができたら
君はそうする?
もし自分が金持ちになれるように他のみんなを貧しくできたら
君はそうする?

ザ・フレーミング・リップス『ヤー・ヤー・ヤーの歌(君にあるパワー)』

君にあるパワーというと、あなたの中に秘めたパワーというか、ポジティブな力の歌に聞こえるけど、これの曲は権力と金力の使い方を歌っている歌だと思う。

力を使える者は、弱者を自由に支配できるわけじゃなく、責任がある。どんな上下の関係性でも力を行使する対象には敬意を払わなきゃいけない。そして、支配しきれるものなんてどこにもない。もし自分が何かをコントロールできていると思っていても、逆にその対象からは必ず影響を受けている。すべての人は関係性の中にいる。

自分でも他人でも、もし何かを力づくで抑えているとしたら、いつかは何かしらの反発がある。力は流れさせなきゃいけない。流れをせき止めればいつかは氾濫する。

でももし、抑える力の外で本当に何かを自由にやろうと思ったら、またそこには責任が生まれてくる。自由に、流れをせき止めずにやろうと思うからこそ、いろいろな面倒臭いことも引き受けなければいけない。だからこそ覚悟がいる。自由を手に入れようと思えば、やむにやまれず覚悟が出てくる。

自由にやるということは、動機の自発的な動きもあると思うけど、やむにやまれず追い込まれるということが大きいような気がしている。

責任は他人に対してだけじゃなく、自分に対してこそ大きくある。自分に対して下手なことができないと思うからこそ、他人に対しても下手なことはできない。そう考えていくと、どう行動していくかのポイントが少しずつ見えてくる。

何かを引き受ける覚悟がなければ、すべては水の泡。少しの嘘が嘘を重ねて、嘘をつき続ける羽目になる。しまいには自分でも何が嘘なのかわからなくなっていく。

自分は何がしたいのか、どうあるべきなのか、人間は関係性の中にしか生きられないとしたら、その関係性の中にボヤッと浮かび上がる瞬間が自分なのかもしれない。でも、それすら掴み所がない。ひとつだけ僕にわかることは、僕は権力も金力も持っていないということだ。

思いつくままに文章を書いているから、何が言いたいのかはわからない。だって自分のことは自分がいちばんわからないんだから。

自信があるからやっているわけじゃない

20200225

何かが得意だからそれをやっているわけじゃなくて、それが自分になんとか出来ることだからやっている、と思うことがある。実際、僕は絵を描くことが自分は得意だとは思っていないし、音楽をやるのも得意だからやっているわけじゃない。

何かを作るということは、自信がある部分はもちろんあるけど、コンプレックスと表裏一体な所があると思う。とにかく自信があって、自分の作るものは頭の上からつま先まですばらしい、と思ってやっている人は実際少ないんじゃないかと思う。

僕は自分のやり方で自分の絵を描くことは出来るが、決して絵が上手くはない。別に自分を卑下しているとか諦めているわけじゃなくて、実際に上手くはないと思っている。僕はいろいろ器用にできるタイプではないし、別の言い方をすれば、絵を描くことにコンプレックスがある。

好きだからやっている、というのはもちろんある。だけど、本気でやるならばこそ苦しいということもある。何かを作るということは、つまずくことの連続だ。試して、失敗して、改善して、の繰り返し。当然自信を失うことはしょっちゅうだ。

岡本太郎は自分のことを「自信に満ちて見えると言われるけど、僕自身は自分を終始、落ち込ませているんだ。」と言っていた。自信というのは、他人と比べて自分が上かどうかということなので、そこを目指すのは卑しいのだと言う。

自分より上の人間なんて腐るほどいるから、他人より上かどうかの自信であったなら、絶対にいつかは崩壊する運命だろう。形あるものは必ず壊れる。

だからなぜ自分はそれをやっているかが大事なんだろう。それにはいろんな要素があるけど、やらずにはいられなくなったからやるというのは大きいような気がする。

僕の場合は、何かを始めてからだんだんと自分の中で意味が大きくなっていったことが多い。でも始めから自分のやりたいこと、やるべきだと思うことがわかっている人は少ないだろうから、それはそれで良いのかなとも思う。

やるべきことが早いうちからわかっていて、それに迷わず突き進める人を天才と呼ぶのかもしれない。でも回り道だって全然いいじゃないと僕は思う。負け惜しみじゃなく。いろんな回り道をしたからこそ見える景色もある。それぞれの人の、それぞれの味わいがある。

最近、どうしても考えようとすると頭が回らなくなることがあって、自分の中で何かが引っかかっているような感覚があった。いったい何が引っかかっているのか、考えようとしても頭の中で回避しようとしているのがわかる。でも回避するのを自分の意志ではやめられない。

何日も何だろう?と考えるんだけど、なぜだかまったく掴めなかった。でも、文章を書きながら考えた結果でもあるかもしれないけど、僕は世の中との向き合い方を考えざるを得ない時期にかかっていいるんだと、ある時に突然ハッと思った。

なぜ世の中となのかと言うと、自分の作るものには絶対にその視点が反映されるからだ。そこの立ち位置が自分の中で曖昧だった部分があるので、ずっとモヤモヤしていたのだ。

できることなら考えたくないことは、誰だって考えたくない。そこには見たくないものがあるかもしれないから。でも、少しきっかけが掴めた気がするので、後は焦らないで考えたい。そういうのって焦ると引っ込んだりするものだし。

そういうことを思うたびに、ある種の使命感というか、運命的な感覚が強くなっていくような気がする。大げさに聞こえるかもしれないけど。そうとしか言えない、今は。