そんな速さの中で生きていけるんだろうか

20191029

時代が進むにつれて、時間の流れが速くなっているとよく言われるけど本当だろうか。

確かに10年前、20年前と比べてさえ、なんだか頭の中が忙しくなっているような気がする。それはフリーランスという自分の境遇もあるかもしれないが、常にいろんなことを考えてしまうので、切羽詰まった感じになっているからかもしれない。

だけど間違いなく、ネットとスマートフォンの進歩とSNSなどのおかげで、一人の人が抱える情報の量とスピードは増えている。

茨木のり子詩集』の巻末にあった対談のなかで、茨木さんは現代社会のスピードに気をつけないと巻き込まれてしまうと言っていた。その対談がされたのは1984年だった。

1984年、僕がまだ子供だったころ、うっすらとした記憶の中では、もっと世の中のスピードはゆっくりとしていたような気がする。もちろんそれは子供だったからということもあるだろうけど。それでも当時の大人とすれば、世の中が早くなったと感じていた。

そのころからスピードが速くなったと言われているんだから、今現在はとてつもない速さなんじゃないか、ということを考えてしまう。

でもそれを言い出したら、夏目漱石の小説の中でも東京のスピードの速さを言っているくらいだから、明治の昔から速いと言われていた世の中の流れはどんどん速くなりつづけていることになる。

そんな速さの中で、人間は生きていけるんだろうか?

それともある程度変わらない部分はあるんだろうか?スピードが速くなっていると感じているのはどういう部分なんだろうか?

僕自身が速い情報スピードについていけないので、SNSなんかにどんどん書き込んで、いろんな人とスムーズにやり取りしている人なんかを見ると、本当にすごいなと感心してしまう。スピードに対応していける人はちゃんといる。

頭の情報処理の向き不向きは人それぞれだと思うので仕方ないとは思うけど、僕はいろんな人がいろんな発言をしているのを見たり聞いたりすると頭が混乱してきてしまう。ネットで調べものをするのも、下手をすると情報過多になって疲れ果ててしまう。

茨木さんは対談の中で、自分のゆっくりとした時間の流れをつくり出していきたいと言っていた。世の中の流れが速いからこそ、自分のゆったりとした流れを作らければいけないと心底思う。なかなかできないんだけど。

ちょっと前にどこかで読んだ記事に、ゆったりとした時間を持つのが大事だと世の中で言われ始めているが、そもそもそういう時間を持てるかどうかの格差ができているんだということが書いてあった。忙しい人は忙しさのスパイラルからなかなか抜けられれない。今やゆったりとした時間は贅沢な品なのだ。

スピードが速いということは外からの刺激に対して頻繁に反応するということだから、必然的に自分と向き合う時間もなくなる。自分自身の感覚を感じることもおろそかになる。

意識が外側にばっかりいっていると自分を見失ってしまう。気がついたら意識が外を向いている。意識が外を向くと他人の反応が気になる。だからそれを問題視したInstagramからいいねの数の表示が消えた。いいね。

世の中がわかりやすいものばかりで薄くなってしまうのは、多くの人の意識が外側に向きすぎているせいもあるんじゃないかと思う。自分と向き合う時間がないと深さが生まれない。

もちろんネットやSNSが悪いと言いたいわけではなく、使う人によっては、のめり込みすぎて自分の内側に向かう時間がなくなって、呑まれてしまうから気をつけたほうがいいということだ。

とにかく速さを競ったり、とにかく注意を引こうとするものばかりじゃなくて、スローな時間軸の中で作り上げたものが生きてくる世の中になったらいいなと思っている。