長い時間を切り捨てて

smokeman20201228

パソコンやスマホ(今更だけど、スマホって間抜けな響きですよね)を使っていると避けられないのがソフトウェアや端末の更新だけど、そういうのに追われる頻度が昔より多くなっている気がする。

僕が使っているのはMacとiPhoneで、なんというかアップル一色だけど、端末とOS、ソフトの関係にはいつも頭を悩ませられる。端末と対応するOS、OSとそれに対応するソフト、さらにプラグインも考えるとなかなか面倒臭い。使うソフトが増えるほど面倒だ。

常に更新して最新のものを使えればいいけれど、お金もかかるのでそうもいかない。だから時期を見計って更新し、すべてのバランスがちょうどいいところに落ち着くわけだけど、なかなかタイミングが難しい。ところで、古いバージョンをどんどん切り捨てていく最近の傾向は嫌だな。

最近では5年半ぐらい使ってきたiPhone 6が、いろいろ動作に問題が出てきたのでさすがに機種変更することにした。

僕は新し物好きというわけではないし、物に対しては結構実用主義だ(こだわりはある)。だけどスマートフォンが普及する前の携帯電話って2年ごとに機種変更するのが常識みたいになっていて、自分もなんとなく2、3年に1回は機種変更していた。

そう考えると、1台を長く使えるようになったのは良いことなのかもしれない。5年半が長いのかどうかはわからないけど。

だけど、使い捨てのように携帯電話を機種変更していた時代と比べてゴミは減ってるんだろうか?そういえば「使い捨て」って言葉も昔ほど流行らなくなっているような気もする。

昔はあんまり考えなかったけど、最近では1つのものをなるべく長く使いたいと思うようになってきた。時代の流れもあるけど、僕にはどちらかというとピカピカの新製品ということよりも、長い時間に耐えられるということが重要に思える。

今うちにあるもので一番古いものは1978年製のテレキャスターというギターだ。種類が違うのでもちろん単純に比較はできないが、パソコンなんかは10年経てばもう古くてあまり使えなくなってくるけど、楽器は古い方が音が良かったりするから不思議だ。

今は時間の隙間を埋めていく時代なので、長い時間というのは流行らないのかもしれない。効率よくというメッセージも溢れているし、新しいものが次々と出てくるので、作る側も使う側もどんどん時間が細切れになっていく。スマートフォンも時間を細切れにするので気をつけないといけない。

僕は人より考えるのに時間がかかる方だけど、それでも人間ってある程度時間をかけないと物事ってわからないと思う。長い時間が大事なのは、物事を味わうという人間の感覚に関わってくるからだ。そういう長い時間を切り捨てていくのって、あんまり良くないんじゃないかなと思ったりする。

そういうことを考えていると、『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる主人公の叔父さんの言葉が頭に浮かんでくる。こういう時代だからこそ、長い時間をなるべく意識していくのがいいのかもしれない。

「だとすれば、何かがはっきりとわかるまで、自分の目でものを見る訓練をした方がいいと思う。時間をかけることを恐れてはいけないよ。たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ」

『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹

自分を更新していける人たち

20201206 cat

The Flaming Lipsの新しいアルバム『American Head』は最高だ。近頃はこのアルバムと、BADBADNOTGOODの『IV』を繰り返し聞いている。

The Flaming Lipsのキャリアは相当長いけれど、なぜこうも新しくみずみずしい作品が作れるのかと思う。近年のアルバムは、ギラッと光るようなダークな作品が多かった(それらもすごく良いです)。今作の『American Head』は、悲しみを帯びたトーンの曲は多いけれど、その中に何か新鮮で暖かい光を感じる。バンドのモードが変わったのではないか、と感じた。とにかく繰り返し聴くのをやめられない。

あるいは、ボーカル、フロントマンのウェイン・コインの結婚と、さらにお子さんが誕生したのが大きいのかもしれない。年齢に縛られるのは日本人の悪い癖だけど、写真を見ても60歳に近い人とは思えない。なんというか、そうありたいと思える生き生きとしてカッコいい人だと思った。おそらくかなりの変人だけれど。

このアルバムのタイトルをざっと見てみると、『Mother I’ve taken LSD』というタイトルの曲が目について、少し驚いた。

この曲の歌詞を見て見ると、「お母さん、僕はLSDをやって心が自由になると思ったけど、世界の悲しみが見えるようになってしまった」といった内容だった。

タイトルを見た限りでは何かぶっ飛んだ歌詞が書いてあるのかとも思ったけど、以外にも深い悲しみが歌われていた。なんだか本当に心を掴まれてしまった。

テーマは単純に「薬物、ダメ。ゼッタイ」みたいなことではないとは思うが、救いを求める所に悲しみがあるというのは世の常で、そう考えると世界に対する悲しみを歌ってるようにも感じられる。

でも歌の内容のように、悲しみが見えるようになるというのは人として良いことなのかもしれないと思ったりもする(薬物をやっていいという意味ではなくて、一応)。

この曲で思い出したのが河合隼雄さんが書いていた話で、たぶん80年代ごろの話だと思うけど、シンナーを吸っていた少年に話を聞くと、みんな一様に観音様に包まれたような気分になるという話だった。

観音様は母性的なものの象徴で、不良少年と呼ばれる人たちが母性に包まれることを求めていたという話も興味深いし、この曲もお母さんに語りかけているという内容から何か共通するものがあるんじゃないかと思えてしまう。

確かにこのアルバムは母性的なものが強く芯にあるような感じがする。

バンドに限らず、何かを長く続けるというのはとかく惰性になりがちだけど、新しく自分を更新してこういう作品を作っていける人たちは本当に素晴らしいと思う。

ところで、最後にThe Flaming Lipsのライブを観たのは確か2013年の赤坂ブリッツだった。次に観られるのはいつになるんだろう。というか、次に海外のアーティストのライブを観られるのは一体いつになるんだろう。

「差異」が細かく分けられていく

volcano_20201119

最近、久しぶりに養老孟司と宮崎駿の対談本『虫眼とアニ眼』を読んだ。非常に面白かった。本を読み直すことの良い所は、以前わからなかった事が少しわかるようになっている所だ。

この本は1997年から2001年にかけての数回の対談が乗っているので、20年ぐらい前の内容だけど、この対談の中で危惧されていることが今の時代にさらに当てはまるような気がしてならない。

この本の中で養老さんが言っていたことで、人間は自然の「差異」を見分ける能力があるけど、今はその能力が人間の「差異」を見分ける方向に向いていると言っていた。これはなんだか納得できた。自然と人間が切り離されて、意識が人間に向き過ぎている。

ところで、僕はお笑いは好きで結構見てたんだけど、最近はあまりテレビでお笑い番組を見なくなってしまった。見るとしたらYouTubeなどで好きな芸人を少しずつ見る。

というのも、お笑い番組やバラエティ番組などを見ていてなぜかしんどくなることが多かったから。なにかが息苦しいような気がする。

そこで「差異」の話なんだけど、お笑いには当然ツッコミがあって、ツッコミっていうのは人間の「差異」を拡大して笑いに変えるという部分があると思う。

昔からお笑いを見ているので、もちろんボケとツッコミはあって良いと思うんだけど、なんだか最近はツッコミという役割が拡大されているような気もする。ツッコミによって人間の「差異」がどんどん細かく分けられて、それを拡大して見せられているような感覚と言えばいいだろうか。

「差異」を見つけたら笑いに変えなければならないから、どんどん人間に対する見方が細かくなっていく。最近ではお笑い芸人だけじゃなくいろんな人がツッコミをするから、さらにみんなでツッコみ合うパターンがコミュニケーションのセオリー化しているような気がして、なんだか息苦しく感じてしまう。

僕としては「差異」を一気に拡大して見せられるよりは、ジワっと感じさせてくれる方がイメージも広がるし面白いと思ってしまうんだけど。どうだろう。

昔のコントで言えば、ドリフ大爆笑でのいかりや長介のスタイルは派手にツッコむんじゃなくて、ただ戸惑ったりする客っていうのが今思えばなんだか良かったなと思う。

今はなんでも分かりやすい方がうけるから、あまり流行らないのかもしれないけど。でも少しはそういう流れがあってもいいと思うな。

いや、そうは言っても面白いツッコミは好きなんだけど、たぶん過剰なのが嫌なんだと思う。