コントロールを手放す時

control

コントロールをするということに、僕はどちらかというと懐疑的である。

突然言うとたぶん何のことかわからないと思うけど、簡単に言うと、生き物をコントロールするということに懐疑的なんだと思う。

車やバイクなどは的確にコントロールしなければ事故を起こしてしまう。だけど人間は機械を扱うようにはコントロールできない。それは他人でも自分でも同じことだと思っている。

赤ちゃんや子供はある程度コントロールしなければ命の危険もあるとは思うけど、それでも機械を扱うように支配的にコントロールしようとすれば、その報いは自分に跳ね返ってくる。

はっきりと意識したのは最近だけど、生き物をコントロールするということは不自然なことだという意識が昔からある。

もちろん、社会は法律や規則などのコントロールで成り立っている部分が大きいけど、行き過ぎのコントロールは必ずどこかに歪みが出てくる。

自分自身だって、無理にコントロールしようとすれば壊れてしまう。本当に。犬や猫だって無理にコントロールしようとすればきちんと反発してくる。それはとても自然なことだ。

行き過ぎたコントロールは、必ずコントロールされた側からの反発がある。それは一見、反発という形に見えないこともあるかもしれない。歪みがいろいろな形をとって現れてくるのだ。

他人をコントロールしたがる人が台頭する時代。アメリカのトップを見ると本当に恐ろしくなる。コントロールする人たちは自分たちの不安を解消するためにコントロールしたがるのだとも思う。

最近では何事もコントロールを手放すことが大事なような気がしている。もちろん最初は順序立てて考えたりするのは必要なんだけど、ある程度の所まで行くと、えいっ!とコントロールを手放さないと前に進まないポイントがある。

コントロールを手放したところでその時は良い方向に行くとは限らないけど、その方が自分の頭に惑わされないで済むような気がする。

自分のこざかしい考えを放り投げて、初めて掴めるものがあるような気がしている。これはいろんなことに当てはまると思う。すべてをコントロールしようとするとかえって自在さを失ってしまう。

ところで、男は女を支配したがるものだ、という一般論を聞いたことがあるけど、僕には全く理解できない。女性を支配して何が楽しいんだろう?と思ってしまう。

支配しているつもりが、何か別のものに支配されているなんてこともあるんじゃないだろうか。

いつかは山を降りる

get off the mountain

久しぶりの投稿になってしまった。

しばらく文章を書くまいと心に決めたわけでもなく、ただ書くことができなった。いろいろと忙しかったこともあるし、じっくり向き合わなければいけないこともいろいろとあった。単純にちょっと疲れたりもしていた。

岡本太郎は人間の精神は外に向かって開くときと、内側に閉じこもるときがあると言っていた。その通りだと思う。どちらが良いというものでもない。

最近は、とにかく表に向かって開くことが良いことで、内にこもることは無条件で悪いことである、という風潮もあるけど、僕はそうは思わない。内にこもってじっくり考えるからこそ、外に向かって大いに開くことができる。

内にこもるということは休むこと、考えることだ。常に前向きで明るくいなければならないという常識があるために、休むことや一人で考えることに罪悪感を持ったりするんじゃないだろうか。一人で自分と向き合って考えることは生きていくためには絶対に必要なことだ。もちろん、一人で悶々と考えて堂々めぐりをしてしまうときは、人の力を借りなければいけないときもあるだろうけど。

ところで、最近は世の中がなるべく考えないように出来てきているような気もする。中川家の剛さんが(中川家が大好きなんです)、最近はパッとみてわかるものじゃないと受け入れられないとYouTubeで言っていた。テレビもお笑いも面白いとか面白くないではなくて、パッとみてわかりやすいものが受け入れられる傾向にあるらしい。何かを考えさせるもの、考えなければわからないものは受け入れられにくいと言う。

ネットでもテレビでも街中でも、目につくものはいかに人々の気を引くかばっかりになっているような気がするので、うんざりしてしまうことがある。わかりやすいことが悪いことだとは思わないけど、あまりに浅はかじゃないか?と思うことも多い。

広告効果ということで言えばそれはそれで正解なのかもしれないけど、なんだかなあと思う。ネット上でもこれでもかと気を引こうとしている情報が溢れているので、最近はあまり見ないようにしていた。SNSなどもこの2ヶ月ぐらいほとんど見なかった。

だけど山にこもったら、いつかは山を降りなくちゃいけない。またすこしずつアウトプットしていきたいと思うようになってきた。うんざりばかりもしていられないし、やることもやらなくちゃいけない。

コロナウイルスにもうんざりさせられるけど、今年一年で世の中が変わってきているので、それはそれで悪くない気もする。

それは良い部分もあるし、相変わらず悪い部分もある。世の中が動くということは、自分自身も変わるチャンスがあるということだ。

コロナで内にこもった分、外にひらくことができると思っている。

How to disappear completely

cave

ふと気づくと、一貫して自分の中にあるテーマというか、心と体に染み付いていることに気づくことがある。

僕の場合は、子供の頃から自分の気配を殺すということが一貫して染み付いていると思う。これは無意識にやっていることなので、やろうとしてやっているわけではない。気がつくとそうなっている。それに気づいたのはだいぶ前の話だけど。

特に大勢の中にいる場合は、無意識的に気配を消していることが多いと思う。気づかれないように気配を消しているというよりは、自分の存在は誰かに感知されないもの、という感覚がある。

実際、自分がそこにいても気づかれないことが多かった。気配を消すのは得意だと思う。昔はそれこそ、話したことのない人に話しかけられると「あ、自分って感知されるんだ」と不思議に思ったことがある。

だから特に自分が何をやっていても、誰も別に気にしないだろうという思いがあるような気がする。ある意味では気持ちは透明人間のようでもある。でも、もしかしたら自分としては透明人間が理想なのかもしれない。

でももしかしたら、僕は自分であることから逃げたいのかもしれない。それは自分が好きとか嫌いとか、そういうことではなく、何かしらの殻を脱ぎたいのかもしれない。だとしたら、自分であることとは過去の記憶の集積なのかもしれない。

もともと自分というものは形があって無いようなものだ。仏教では「空」という考え方をするし、自分なんていうものも無いのだという。だから自分が自分であることなんて、大したことじゃないのかもしれない。でもそれは自分の考えを捨てて、他人や社会に合わせればいいという意味ではないはずだ。

完全に姿を消して生きていけたらと思うのは空想かもしれないけど、自分というものが無いというのも事実だし、自分が自分であることも事実だ。だからその両方を橋渡しして眺められたら良いのかなと思う。「自分が自分である」ということと、「自分なんて無い」ということは、矛盾しないんじゃないだろうか。

この前、映画『万引き家族』を観た。映画の中の家族たちは社会的には存在を消して生きているようだったけど、幸せそうに見えたのが印象的だった。

社会的に悪いことだからと言って、人間的に悪いこととは限らない。逆に社会的に良いことだからと言って、人間的に良いこととは限らない。だからといって悪いことをすれば良いというわけじゃないけど。

脳の「フロー」って状態があるらしいけど、きっとそれって自分が無いという状態なんじゃないかと思う。昔にトム・ヨークのインタビューを読んで、ジミ・ヘンドリックスがギターを演奏している時は「神聖な状態」なんだって言っていた気がする。それってきっと自分が無い瞬間なんだろう。

そういう瞬間が訪れるために生きていると言ってもいい。