過去の時代の輝き

fukurou

まだ油断はならないけど、生活が少しずつ戻っていく中で、ようやく少しずつ戻ってくる感覚もある。

最近はどうにも気分が沈む時間が多かった。だからいろんなものを観たり聴いたりすることが多かった。

考えても少しずつしか見えてこない。僕はゆっくりしか考えられないたちなので、とにかくそれを続けていこうと思う。少しずつでも見えてくるのは良いことだ。そして少しずつ見えてくるものこそ、大事なものだと僕は思っている。

ここ1ヶ月ぐらい、60年代〜70年代の音楽をいろいろ聴いている。歴史を辿れるのもストリーミングの良いところだ。改めて聴くと、やっぱり僕は70年代の音が好きなんだなと改めて思った。

過去にも70年代の音楽を聴いてはいたけど、CDをたくさん買うのはそれなりに大変なので、いろんな音楽を気軽に系統的に聴けるというのは良い時代だと思う。

70年代の音楽は、魂を掴もうとしている音楽が多いように僕には感じられる。何かが動いている時代という感じがする。そして70年代特有の温かみのあって深い音は素晴らしい。国内外問わず70年代の録音はなんであんなに良い音がするんだろう。レコーディング、ミキシングなどの機材は70年代を再現しようとしているものが多いのも頷ける。

僕はギリギリ70年代の終わりに生まれたけど、生まれて半年もしないうちに80年代になったので、もちろん70年代のことはリアルタイムで全く知らない。だから懐古的になって聴いているわけじゃなく、新鮮に新しく取り込む音楽として聴いている。

自分が10代だった90年代は、70年代と聞くとものすごい昔に聞こえたけど、それは自分がその時代を知らなかったからなんだなと思う。今思えば、自分にとって90年代から2000年代ってそんなに昔に感じないから。

あと、最近はBSのお昼ぐらいにやっている50年代〜70年代ぐらいの古い映画を録画して観たりするんだけど、以外と面白いものが多い。僕は特に映画好きというわけではないので、昔の映画なんかは今まで観てこなかったんだけど、黒澤明の『七人の侍』を観るまで黒澤映画がこんなに面白いとは思わなかった。70年代の映画では『新幹線大爆破』の高倉健に痺れた。

昔の西部劇も面白いし、ヒッチコックの作品やチャップリンなんかも少し観たけど、最近観た中では『心の旅路』という映画が美しくて非常に良かった。全然期待していないで観始めたけど、いつのまにかすっかり引き込まれていた。

自分の生まれる前のものに惹かれるのはなぜだかわからないが、その年代特有の輝きがあることは確かだと思う。そして昔の作品に名作が多いのも事実だと思う。

時代は過ぎ去ってみないとわからない部分が多い。今の時代のものが未来の人にとって輝きを感じるものになれば良いとは思うけど。

昨日わからなかったことが、今日わかる

rooster

毎日が停滞のような気分も続く中、毎日いろいろ考えるけど、コロナの余波で思わぬことに巻き込まれたりもする。そして普通じゃない時には普通に考えるのが難しい。

なかなか毎日変わらないと思っていても、振り返ってみると自分の心境は毎日変わっていく。

やろうとしていることは変わらなくても、心境が変わるとアプローチが変わってくる。池の中に落ちている石をどうやって取るか、濡れてもいいからそのまま水の中に手を伸ばして取るか、網を使って取るか、ボートに乗って取るか。あるいは取らないで眺めているか。

結果を焦って見ようとするよりも、毎日毎日の自分の心境の変化に注目した方が良いような気がしている。僕にとって心境の変化がわかりやすいのは、聴きたい音楽が変わる時だ。

何かを考える時、作業をする時、本を読む時など、大抵音楽を聴きながらのことが多い。当然、その時の状況、気分などによって聴く音楽が違ってくる。

でも、前の日まで繰り返し聴いていた音楽がぷつりと聴きたくなくなって、まったく違う音楽を聴く時がある。そして繰り返しその音楽を聴いていると、またそれを聴かなくなる時が来る。するとまた別の音楽を聞く。そしてまた前に聴いていた音楽に戻ってくる。

そしてまた過去に聴いていた音楽に戻ってくると、自分の聴き方も変わっていることに気がつく。その時に、ああ、前に聴いていた時と心境が変わったんだなと思う。

僕はいろんなアーティストの音楽をとにかくたくさん聴く方ではなく、一定期間同じアーティストを繰り返し聴く(これを書いている今はLCD SOUNDSYSTEMを聴いている)。その音楽が自分の体に馴染むまで時間がかかるのかもしれない。あるいは音楽を感覚として体に染み込ませたいのかもしれない。

音楽に限らず、何事も、ぐーっと近づいてのめり込んで、その後で距離をとることで、少しずつ物事を掴んでいける気がする。我を忘れてのめり込む経験がないと、距離をとった時に奥行きが出ないんじゃないだろうか。

人間は少しずつしか変われないので、自分自身の変化も気づきにくいけど、昨日と今日では確かに変わっている部分がある。昨日わからなかったことが、今日わかることがある。

変わらないと思う部分を見てばかりいると気持ちが停滞してしまう。自分が変われないと思えば、人の足を引っ張りたくなるものだ。

停滞していると思っている時は信じられないかもしれないけど、人は変わる。どうせなら変わったと思う部分に注目して生きていきたい。

犬の世界も理不尽だ

grapefruit

公園のベンチに座って、人が歩いていくのをなんとなく眺めているのは割と好きだ。散歩をしている人たちは大抵は穏やかに歩いているからだ。

歩いている人たちの会話が少し聞こえてくることもたまにある。この前得た情報は、「ウーバーイーツは汁物に弱い」ということだった。特に使わないけど。

たまにうるさい人たちもいるけど、公園は人を穏やかにさせるんだろう。犬の散歩をしている人も多い。

猫の散歩をしているひとはまず居ないから、犬の散歩をつい見てしまうわけだけど、犬を大事にしている人は犬の表情を見てもわかる。飼い主と良い関係の犬は顔も穏やかで少し笑顔になっている。なんだかこっちまで嬉しくなってくる。

犬が立ち止まってしまって動かないのをなんとか説得している人を見るのも、なんだか微笑ましい。犬は動きたくないんだな、それなら仕方がない。

中には犬が立ち止まるたびに、犬の方も見もしないでやたらに引っ張っている飼い主もいる。仕方ないから機械的に散歩しているという感じ。そういう人の犬は少し怯えて硬い表情をしている。そういうのを見るのは心が痛む。

いつだったか、憎々しげに、まるで鞭を叩くようにリードを引っ張っている女性を見たことがある。遠くに見えたけど、しばらく何をしているのかわからなかった。

よく見たら明らかにリードをバシバシ引っ張っていた。犬はもちろん言うことを聞かず、完全に怯えきった感じになっていた。見ているだけで何も出来ない自分が悲しくなってきた。そういう飼い主はなんとかできないものだろうか。

人間の世界は理不尽で不平等だけど、犬の世界も理不尽で不平等だ。自分が犬に生まれたとしたら、どうせだったら可愛がられたい。

僕は犬を大事にしている人を見るのが好きなんだな、と改めて思った。犬を飼ったことはないけど、そういう光景を見ているとなんだか気分が良くなる。

人間と同じで、動物は無理やりコントロールされると反発する。やっぱり飼い主と犬も、良い関係を築けるかどうかなんだなと思った。良い飼い主は犬の方をちゃんと見ている。そして犬も飼い主をちゃんと見ている。

これっていろんなことにつながる気がする。人間関係でもそうだし、自分に対してもそうだ。自分は自分にとって大事なものをちゃんと見ているだろうか。

人や自分を機械的に扱っていないだろうか。心を失えば機械になる。人も犬も機械的に扱えば自分は魂を失った機械になる。機械に飼われる犬はかわいそうだ。