一体どこから変わっていくんだろう

earth

物事の良い面と悪い面は背中合わせになっていると言われるけど、日本の良い面と悪い面は、良くも悪くも人と人とのつながり方だなんだろう。

僕はよく河合隼雄さんの本を参考にして考える。河合隼雄さんは人間関係のあり方を「場の倫理」と「個の倫理」という言葉を使って説明していた。

西洋では「個(個人)」というものが強く、人が集まる場合でも、あくまで「個」という前提があって関係性がつくられていく。おそらくそこでも「場」はできると思うけど、「個」を前提としているので、その「場」から出るのも自由だし、「個」を主張もできる。

逆に東洋、特に日本では個人と個人がつながるのではなくて、人と人の間にまず「場」というものが出来上がって、その「場」を崩さないように関係性を作っていくということだった。そこでは「個」は埋もれやすくなる。「場」の中にいれば安全だけど、外にいるものには厳しい。そしてそのシチュエーションごとに「場」は作られる。

「場」を前提としているので、個人はその中の役割を演じることになる。日本人は夫婦でお互いのことを名前ではなくて、「お父さん」「お母さん」と呼び合うのもその家族という「場」の役割の中に入っているからだという。

もちろん、完全に「個」の社会か「場」の社会かに別れるというわけじゃなくて、そういう傾向があるということだろう。

日本は落し物が戻ってくるとか、規律正しいなんていうのは良い面だけど、裏を返せば、お互いに監視し合っていて、「場」の外に出ることや、個人が違うことをするというのを許さない社会だ。

マルクス・ガブリエルというドイツの哲学者の記事を読んだ。マルクスさんは日本に来ると、まるで優しい独裁国家のように感じると言う。

そう感じるのは、きっと日本という「場」の相互監視的な作用があるからなんじゃないかと思った。日本のその「場」を維持する力が独裁者のように感じられるんじゃないだろうか。

河合隼雄さんは、日本はみんなが「場」ために少しずつ我慢する社会なので、誰もが「場」の犠牲者になるという奇妙なことが起こると書いていた。

だから本当の意味でのリーダーは少なく、「場」を壊さない調整役としてのリーダーになるから、一見リーダーに見えて中心ではない。実は中身は空で、「場」はドーナツ型の中空になる。だから誰も責任をとらない。空といえば「色即是空」みたいで良さそうに聞こえるけど、なかなかそうではなさそうだ。

問題は、こういう中空な社会って一体どこから変わっていくんだろうと思う。

僕自身はもっと「個」が生かされる社会になってほしいとは思うけど、単純に日本が西洋のような「個」の社会になれればいいというものでもないし、きっとそうは行かないんだろう。

今の所、自分も含めて一人一人の意識が少しずつ変わっていくしかないんだろうな、と思う。自分は自分で今できることをやるしかない。

気持ちの切り替わる区間があるように

dog run

自分の中でなんとなく決めていることがある。SNS上になるべく仕事の愚痴は書かない、冗談っぽくでも自分のことを卑下した事は言わない、等。それをするべきではないと言いたいわけじゃなく、自分はそれをなるべくしないということ、一応。

美学といえば大げさになるけど、自分なりの考えがあって、自分なりの行動原理がある。でももしかしたら、そういうことで人からは傲慢に見えることがあるかもしれない。

やりたくない事はどうしても出来ない。納得いかない事は続けることが出来ない。

自分を良く見せようとしたり、低く見せようとしたりする行為が苦手だ。もちろん処世術としてそういうことがあるというのは知っているけど、僕には出来そうにない。

昔、数ヶ月だけ入った職場で、あるゴタゴタで揉めた時に、上の人から「ストレートなのはいいけど、それは諸刃の剣にもなるぞ」と言われたことがある。

そういうことを言われても、僕は自分を変える気はなかった。自分が絶対正しいとも思わなかったが、間違っているとも思わなかった。

そういうことを言われたからというわけではないが、結局僕はその人をあまり好きにはなれなかった。

でも、自分に出来ない事は出来ないからしょうがないじゃんと、すぐに開き直れたわけじゃなく、長年自分のそういう不器用で曲げられない部分に悩んできた。そしていろいろ本を読んだり、考えたりしてきた。

今となっては、そういう自分で良かったんだと思える。僕はまったく要領良く生きることができないし、たくさん悩んだけれど、自分を曲げないで良かったと思えるようになった。

いろいろ難しく考えていても、本当に必要なものは足元に転がっている。物事の良い部分と悪い部分は表裏一体で、悩みの裏側には答えがあることが多い。

気持ちの角度を変えてみると、さっきまで曇っていた心が急に晴れたりする事はないだろうか。

電車で通勤している頃にたまに経験したけど、電車に乗って景色を眺めていると、まるで気持ちの切り替わる区間があるように、さっと気持ちが晴れる瞬間がある。

上手く生きられるということと、自分自身が充実して生きる事は、必ずしも一致していない。でも上手く生きれないと、人生は充実はしづらい。

でもそこは、どっちかを選ぶというものではないような気が最近はしている。二つの価値観が対立するわけじゃなくて、どこか見落としているものがあるからこそ、どっちかしか道が無いように見えてしまうことがある。

対立しているように見えるものの中に、矛盾に見える中にまた別の道がある、と思うと目の前が開けるような気がしないだろうか。

言葉と感じ方

shower

最近の状況では仕方ない部分もあるとは思うけれど、攻撃的な物言いを目にする機会が多くなったように思う。

でも最近思うのは、言葉は不完全なものだから意味の取り違えですれ違うのは仕方がないとしても、「人間だから、すれ違うこともある」ということを意識していないと、無意味な争いも増えていくような気がする、ということだ。

例えば、「餅はのどにつっかえることがあるから、気をつけて食べないといけない」と誰かが言った時に、「餅を食うなと言うのか!」とか、「餅をバカにするなんて!」みたいな反応も結構あると思うから。

みんながみんな互いに理解できなくてもいいとは思うけど、少しでも相手を理解しようとする気持ちがないと、誰もが言いっ放しみたいになっていくような恐怖を時々感じる。

人はトラウマのある部分の言葉には反応しやすいものだ。そういうことを意識すると、反応してしまった後でも自分の弱点を知ることが出来るし、後の生活に生かしやすいように思う。反応してはいけないとか、怒ってはいけないということではなく、その感情が自分に対して及ぼす影響を知っておいたほうが何かといいんじゃないかな、ということだ。

時には怒りも必要だと思う。でも、怒っている自分は怒っていない自分のことも考えた方がいいと思う。というのは、僕は気が短いので自分に言い聞かせている部分でもある。

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉があるけど、おのれを知るということは難しいものだ。鏡に映った自分を見てもそれは鏡に映った自分なので、外面的な自分というものも自分では直接は見ることはできない。

内面的なものだって、確固とした「自分」というものは存在しない。自分の「傾向」はあると思うけど、それだって常に変化して動いている。

だから経験と関係性で推し量っていくしかないわけだけど、それを妨害するのもまた感情である。だから、その自分の感情から自分を推し量っていくしかない。自分の敵は自分というのも、自分の事は見えなくなりがちだということが関係している思う。

僕は心理の専門家ではないので詳しいことはわからないけど、自分の実感としてはそんな感じになる。

最近とくに、「自分」というものについてばかり書いている気がするけど、まあ仕方ない。僕は内面的なことからしか物事を考えられないたちだ。

自分自身と内面について考えることは、ある意味では宇宙全体を考えることと同じだと思っている。そんな風に考えてみると、こんな面倒くさい考え方もきっと無駄ではないんじゃないかな。