歩きスマホのある風景

smartphone

歩きスマホをしている人は今や見かけない日は無いと言っていいぐらいだけど、なんであんなにスマホから一瞬たりとも目を離さずに歩けるんだろうといつも不思議に思う(褒め言葉ではなく)。ほとんど無謀な曲芸に見える。

ある日街を歩いていたら、正面から歩きスマホをしているカップルが向かって来て驚いた。二人ともスマホからまったく目を離さないで二人横に並んで歩いてくる。

そんなに広い通りではなかったので、ぶつからない程度にすれ違おうと、その二人スマホの横をギリギリで通ったら男の方がビクッと反応して、すれ違いざまに「チッ」という音が聞こえた。

その時は「ん?」と思ったけど、自分が歩きスマホしているのに勝手にすれ違う人にびっくりして舌打ちをする訳のわからないやつがいるわけない、と思って一瞬事実を受け入れられなかった。

だけど思い返してみると、やっぱりあれは舌打ちだったらしい。後で腹が立ったりもしたけど、逆ギレもついにここまで来たか…と悲しい気持ちになった。やっぱりあれは訳のわからないやつだった。

逆ギレというのは、自分にやましい気持ちがあるからこそ逆にキレるものだと思うけど、歩きスマホに関してもそういう人が多いんじゃないだろうか。「こっちはスマホ見てんだよ!」ぐらいな感じで歩いてくる人も多いから。ある意味メンチ切って歩いているようなものかもしれない。

他にも嫌なのが、たとえば話をしながらゆっくり歩いていると、後ろにピッタリ歩きスマホしながらついてくる人。前に人が歩いていれば自分は前を見なくても安全だと思っているところが小ずるい。一応僕はそれをスリップストリームスマホと呼んでいる。

僕はそういう場合は横に避けてあえて追い抜かせる。そうするとなぜかその歩きスマホは「え?」みたいな顔をする。え?

街が歩きにくくなったなと思う。ここ10年ぐらいで世の中が少なからず変わったような気もする。

スイッチを押さないと開かない自動ドアの向こう側で、立ち止まってスマホをいじっているおばさんがいた。僕はドアの中に入りたかったので、こちら側からスイッチを押してドアを開けたらおばさんはびっくりして僕の顔を見た。僕はただ中に入りたかっただけなのだ。

スマホから目を離さないで歩いている人を見ると、なんだか恐ろしくなってくる。どこか別の星に迷い込んでしまったんじゃないかと時々思ったりする。もしかしてあれは、絶えず本部から指令を受けていて、情報を逃したら抹殺されるから目を離さないでいるのかもしれない。

人々はスマホで指令を受け、それを実行する。彼らは別の惑星の言語で話し、未知の価値観で動き、なんだか訳のわからない文化を発展させる。その指令を受け取れる資格がある人として。だとしたら、受け取る資格がない僕らの居場所は、果たしてこの世界にあるのだろうか?

いやいや、そんなことを考えてもしょうがない。自分の居場所は自分なりに作らなければいけない。人々は指令なんか受け取っていないし、あるのはスマホだけだ。

土地勘のない場所に行って、ちらっと地図を確認するぐらいのことはあるけれど、スマホから目を離さないで歩くということは僕にはできない。酔うからバスの中で見ることもできない。

本当に最近は周りが見えていない人がたくさんいるから怖い。車やバイクに乗りながらスマホを見る人もいるらしいからいつ事故にあってもおかしくないと思ってしまう。実際、スマホを見ながら運転の事故で亡くなっている人もいる。

『1Q84』に出てくるタマルが言っている。

「俺の言うことを用心深すぎると笑うやつもいるだろう。しかしつまらん事故は実際に起きるし、それで死んだり大怪我をするのはいつも、注意深い人間を笑うようなやつらだ」

村上春樹『1Q84』

実際、無謀な行為はぜひやめていただきたい。

「こうあるべき」が人を追い込む

sun and deer

先日、なんとなくテレビのチャンネルをNHKに回したら、芸人の山田ルイ53世さんと動物学者の人(お名前は忘れてしまった、失礼)が対談していて、途中からだったけど面白いなと思って最後まで見てしまった。

印象に残った話が、山田さんは10代の時に6年間ひきこもっていた過去があって、インタビューなどでその話をすると、「でもその6年があったから今があるんですよね」ということをよく言われるそうだ。そういういわゆる負の過去が、「意味」があったという方向に持っていかれることにプレッシャーを感じる、という内容のことを言っていた。すべてに「意味」がないといけないのかと。

それはどういうことなんだろうと考えた。

確かに、過去のすべてのことに意味がある、という考え方は前向きに思えるし、きっとある意味では間違った考え方ではないんだろう。でもそれは自分の捉え方次第で思うものであって、他人が言うべきことではない。人の気持ちを先回りして言うべきではないと僕は思う。

そういうもっともらしい言葉が、近頃軽く扱われているような気もする。過去にあったことは、それこそ何年、何十年と重ねて、初めて意味があったと思えるものではないだろうか。他人に無理やり過去の意味を押し付けられたらたまったものではない。

それに、前向きになるということはすばらしいことだけど、自分で過去を消化して初めて前向きになれるのであって、あまりに早い段階で物事の意味を考えすぎると、それこそ「意味」がなくてはならない、「前向き」にならなくてはならないというプレッシャーになるような気がする。

自分の負でも他人の負でも、見たくないがために無理に前向きになったり、無理に意味づけしようとしてしまえば、負は消化されずにズルズルと引きずることになるんじゃないか。

「意味があった」という型に当てはめてしまうことで安心して、考えるということをやめてしまうのだ。

今はネットのおかげですぐそれなりの答えにたどり着けてしまうけど、それがかえって目を曇らせるということがあると思う。これは結構甘く見てはいけない問題だと思っている。そんなのわかっているというつもりでも、いつのまにか情報に取り込まれてしまうから。

世界はこうあるべき、という気持ちは誰でも少しは持っているものだと思うけど、「こうあるべき」世界なんてものは錯覚だということも心の片隅に置いておいた方が良いと思う。

「こうあるべき」が世の中を作りもするが、「こうあるべき」が人を追い込むし、世の中を息苦しくさせる。「こうあるべき」は人が人をコントロールさせる。人が人をコントロールしだすとろくなことはない。

昭和の世界は「こうあるべき」で丸く収まっていたが、それは誰かが我慢して割りを食っているからで、その世界が上手くいっているからではない、というような内容のことを河合隼雄さんが言っていた気がする。今まで丸く収まっていたものを、丸く収めない、というのも変化のためには必要なのかもしれない。

「こうあるべき」も「意味があった」も、そう思いたいからあるわけで、実際の自分の感情や気持ちよりも世の中の価値観を優先している。

何かにつまずいて、それでも考え、いろいろ試行錯誤しながら自分を打ち立てていく人が僕は好きだ。試行錯誤するということは、自分の中の失敗を認めるということが必要になってくる。失敗を認めるからこそ前に進める。

他人の失敗を認めない風潮もあるみたいだけど、それこそ「こうあるべき」に捉われているんじゃないだろうか。「こうあるべき」に捉われれていると謙虚になれなくなってしまう。そしてまた他人に「こうあるべき」だと押し付けるのだ。

言葉にならない『あしたのジョー』

boxing

新しいマンガを読まなくなってどれぐらいになるか分からないけど、ほとんど、というか最近ではまったくマンガを買わなくなった。もう何年もマンガを買ってないかもしれない。

元々、子供の頃は人並みにマンガが好きで読んでいたけど、特にいろんなものを読むようなマンガ好きではなかった。

今自分の持っているマンガは、『ぼのぼの(途中まで)』『あしたのジョー』『風の谷のナウシカ(原作)』『ブラックジャック(これはもらったんだった)』というまったく統一性のない組み合わせ。これさえあればいいかな、というのが残った感じ。うちの奥さんはもっといろんなマンガを持っているけど。

それでも、今までで一番繰り返し読んだマンガが『あしたのジョー』だと思う。自分が生まれる前のマンガだし、初めて読んでからたぶん15年以上経つんだけど、未だに繰り返し読んでしまう。当時働いていた会社の先輩(バンドの先輩でもあった)に勧められて読み出したのがきっかけだった。

『あしたのジョー』にはいろんなものが詰まっている。

ジャンルとしてはスポ根って言われるのかもしれないし、倒されても倒されても立ち上がるジョーの不屈の精神みたいな例えに使われるのも見たことがあるけど、このマンガのテーマはいわゆる精神論や根性論だとは僕にはどうしても思えなかった。

前半はスポ根のような熱いニュアンスがあったりするが、後半に進むにつれて徐々に変化してくる。特にジョーの目つきが変わってくる。何かを悟ったような、覚悟を決めたような顔つきになってくる。

このマンガに精神的なことが大きく関わっているのは事実だけど、僕はジョーの背負う悲しみのようなものを感じてしまう。ジョーのボクシングを続ける姿勢が、自分はそういう風にしか生きられないという悲しみと表裏一体な気がしてならない。

その覚悟と悲しみのようなものに惹かれてしまう。ある意味、不合理とも言えるジョーのボクシングを続ける姿勢に、なぜ惹かれてしまうのだろう。

ジョーは単に勝つためにとか、成功を掴むためにボクシングをやるのではなくて、ボクシングを通じて、宿命とも言える生き方を貫いている。それはジョーが選んだ道でもあるけれど、違った見方をすれば選びようもないことなのかもしれないと思えてくる。

ジョーはボクシングというものに選ばれてしまった、自分でそのことをわかっていたんじゃないだろうか。だけど、何回読んでもジョーの気持ちが本当には・・・・わからない所が作品の奥深さでもある。

そして、「立つんだジョー!」という丹下段平のセリフが有名だけど、実際にそのセリフはそんなに出てこない。むしろ段平は後半で「立つな!」と言う方が多いような気がする。さらに、ボクシングにのめり込んでいくジョーをあれこれと引き止めようとするくらいだ。

ジョーの不屈の精神というイメージだったり、「立つんだジョー」というセリフを元にした根性論にしてしまう方がイメージ的にシンプルでわかりやすいからそのセリフが有名になるんだろうけど、全然そんな単純な話ではなく、とても人間模様が複雑で奥深い。いろんな人のいろんな生き方が見える。だから何回読んでも発見がある。

そんな中で僕が一番好きな登場人物は、ジョーがボクシングのドサ回りをする中で出てくる、稲葉くめろうという人物である。

稲葉粂太郎は元々は華々しいプロの選手だったが、今はボクシングのドサ回りで生活をしている。口数は多くないが仲間からは一目置かれている存在で、ドサ回りの仲間から嫌われるジョーのことを唯一分かっている人物。

自分の人生が上手くいっていないと思えば人の足を引っ張りたくなるものだ、特に仲間から外れた存在に対しては。だが稲葉粂太郎はプロからドサに落ちてはしまったが、最終的にはジョーがプロの世界に戻るために背中を押すことになる。

その背中の押し方が粋でとにかくかっこいい。「男は黙って…」みたいな価値観かもしれないけど、そういう黙って何かをやる人物ってやっぱりかっこいいと思う。詳しくは書かないけど、このあたりのシーンが『あしたのジョー』で一番好きかもしれない。

『あしたのジョーに』には言葉にできない、不可解な魅力がいっぱい入っている。今の時代に足りないものは、そういう言葉にならないもののような気がしてならない。