二十年経って人間椅子に出会った

bird & mountain

前回の更新から一ヶ月ちょっと経ってしまった。

時間もそうだけど、八月は文章を書く頭の余裕がなかった。やることに追われたこともあり、いろいろ考えることもあった。

なるべく頻繁に更新をするというテーマを自分の中に掲げて始めたブログだが(最初は一週間更新を目指した)、心ならずも崩れることとなった。でもそういうこともある。

唐突だけど、人間椅子というバンドにとても心を奪われてしまっている。人間椅子というバンドの存在は二十年前ぐらいに雑誌で見て知っていたんだけど、ずっと音楽は聴かずに触れてこなかった。

聴くきっかけになったのは六月ごろ、『無情のスキャット』という曲のPVがYouTubeのオススメ動画に出てきたので、ああ、人間椅子ってバンド名って昔聞いたことあるな、と思って何気なく見たら、その時点から目が離せなくなってしまった。

カテゴリー的にはハードロック/ヘヴィメタルバンドということだけど、全くそこに収まりきらないバンドである。ミュージシャンのことをアーティストと呼ぶことは多いが、アートを作っていると思える人は意外に多くはない。人間椅子はまさにアーティストと呼ぶべきバンドだと僕は思った。

バンドの存在を知った瞬間は覚えている。非常にインパクトのあるバンド名だから。

二十歳ぐらいの時だった。当時から僕はギターを弾いていたので、働いていた会社の自分の席に『ギターマガジン』やら『プレイヤー』というギター雑誌を持ち込んで、休憩時に読んでいた。

たしか『プレイヤー』だったと思うけど、人間椅子の機材紹介ということでギターとかエフェクター、アンプらが紹介されていたように覚えている。たしかその時に人間椅子がリリースしたばかりのアルバムも紹介されていたと思う。

その時紹介されていたのが『二十世紀埋葬曲』というアルバムだった。人間椅子の過去のアルバムを調べていて、ジャケットを見た瞬間はっきり思い出した。インパクトのあるジャケットだから忘れようがない。

当時の僕はそのジャケットを見て、これを聴くことはないなと判断した。ギターボーカルの和嶋さんが膝の上に石を乗せられて拷問を受けているジャケットで、強烈すぎて僕はその当時は入っていけなかった。人間椅子というバンド名からしてアクが強そうだし。まあ申し訳ないけど入り口としてはちょっと入りにくいと思う。

その後約二十年聴かずにいて、今現在すっかり心酔してしまった。不思議な気持ちである。

最近はデビュー当時からの変遷を辿ってみているんだけど(作品が多いので聴くのに時間がかかる)、ある時期ある時期での進化の過程がとても興味深い。

特にメインで作詞作曲をするギターボーカルの和嶋慎治さんに何か感じるものがあり、ネットのインタビュー記事やコラムなども読んだ。いろいろ調べたら『屈折くん』という和嶋さんの自伝が2017年に出版されていた、自分も多少屈折しているという自覚はあるが、これは是非とも読んでみたいと思い、買って読んだ。

この本には非常に感銘を受けた。苦悩の体験が満載の本ったが、読後はとても爽やかな気持ちになった。自分なりに生きることを模索している人には、是非この本をおすすめしたい。

何が僕をそんなに惹きつけるのか。ひとつは和嶋さんの自分に嘘をつかない姿勢が大きいようにも思う。僕は自分の表現を苦しみながらも模索している人にどうしても惹かれてしまう。そして和嶋さんは自分のことを屈折していると語ったが、非常に真っ直ぐな人だと思った。

人間椅子は地獄をテーマにした曲も多く、おどろおどろしい音楽をやってはいるが、聴き終わった時になぜか爽やかなのは、そういう姿勢があるからなのかもしれない。メンバーの雰囲気もとても良いし。

僕は音楽をあまりジャンルで分けて聴いたりする方じゃない。何かそのミュージシャンに感じるものがあるかどうか、どうしても心が震えるところがないとのめり込めない。

僕は、アートはある意味では自分を掘り下げて行くことによって他者とつながる行為だと思っている。まさに今この日本で、そういう音楽に出会えたことを幸せに思う。

夏目漱石に感じるシンパシー

manekineko

夏目漱石を読み出したのはいつ頃だったかはっきりとは覚えてないが、たぶん十年ちょっとぐらい前だったと思う。

いろんな人がいろんな本で夏目漱石の著作を引用していたり紹介をしていたので、これはひとつ読んでみないとな、と思ったのがきっかけだった。村上春樹も夏目漱石を読んでいたというのも気分的に後押しした。なにしろ知っていることは、お札になっている歴史上の人物というぐらいだから、難しそうというイメージしかなった。

とりあえず有名な本を買ってみようと思って、たしか最初は『吾輩は猫である』を読んでみた。読み始めてみると、昔の言葉や言い回しに慣れていない上に、淡々と情景描写が続くので最初は途中で断念してしまった。その上結構長いし(その後、何年かしてから改めて読破した)。

これはどうも特殊な小説だったんだなと思い、比較的普通に読めそうな『三四郎』を買った。これは普通に読めるし、面白い。しかもかなり感情を動かされる。こんな昔の小説なのに今とまるで変わらない所があるような気がする。こう読んでみると、難しそうというイメージってなんだかもったいないなと思った。

僕にはまったく学というものが欠けているので、学問的な知識は全然無いし、文学的なことも説明できないし、文学の定義もよくわからないけど、とても面白い小説だと思った。僕なんかが言うのは本当におこがましいが、夏目漱石が抱え、問題にするテーマに対して自分もシンパシーを感じるような気がしたのだ。

僕はいろんな人を幅広く読む方ではないので、一度はまると同じ人を何回も読んでしまう。期間を空けて読み直したときに、新たな発見があったりするのが良い。僕は一つの物事を消化するのに人より時間がかかるんだと思う。

だから小説でも音楽でも漫画などでも、自分にバチッとはまった作品を何回も反芻してしまう。幅広い知識を求めたりだとか、収集癖だとかはあまりないので、マニアにはなれない性格かもしれない。

そしてあるとき、ふと本屋で手に取った『「普通がいい」という病』(泉谷閑示 著)という本にも夏目漱石の引用があった。この本での引用は小説ではなく、夏目漱石が講演をしたものを文章にした本『私の個人主義』だった。

これは夏目漱石が当時の学生に向かって講演をした本で、若者に対して発する力強いメッセージがあった。以下は夏目漱石が小説書いていく覚悟を決める前の心境を語ったものだと思う。僕はこれを読んだ時に、何か自分の中に隠されていたものに光が当たったような心地がした。

私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当が付かない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。(中略)私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一ヵ所突き破って見せるのだがと、焦躁り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見するわけにも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのであります。

夏目漱石『私の個人主義』より

夏目漱石は後に自分自身のやるべき事を見つけた時に、その霧が晴れていったということを言っていた。僕はそれに感激した。この講演の本意はそこではないと思うけれども、生きた言葉としてとても影響された。

いろんな人が、いろんな言い方や表現方法でこういった事を書いているが、こういう歴史上の人物とも言える人の生々しい煩悶を目にすると、急に距離が近まったような感じがする。どんな立場の人物でも、人間であれば共通するものがあるのかもしれないと思った。

自分は勉強は全然できなかったし、はっきり言っていろんな意味で落ちこぼれだが、人間である以上は心の中に言葉に出来ない共通点はできるものなんだろう。夏目漱石のようなエリートの言葉の中に、自分のような雑草人間に働きかけるものがあった。ある意味では、それが僕にとっての錐だった。根源的な問いかけは人を選ばないのだ。

雑草と言ったって別に自分をやたらに卑下したいわけじゃないけど、現実的に相当の違いがあるのでそういう比喩を使ったとしてもたぶん間違いではないだろう。

夏目漱石の作品は単に面白いだけではなくて、心に引っ掛かりができるから何回も読んでしまう。単に面白いだけの作品ではそういう事にはならない。

小説にしろ音楽にしろ、何か心惹かれるものがあって何度も読んだり聴いたりしてしまう、そういうものの中に、自分の抱えるものに対する力や生きていくための力が含まれていると僕は思っている。

ブログを始めたことについて

cat and dog

ブログを始めたことについて、ブログを通して何かしらのつながりや、活動に広がりが生まれるかもしれないと思ったことが動機のひとつである。しかし、やっぱりブログを書き続けることによって自分自身の意識の変化があるだろうと思ったことが大きい。

意識の変化と言っても、具体的にどこがどう変わるかはわからない。おそらく具体的には言うことのできない領域が変わってくることが大きいだろうと思う(人に言えない秘密のことという意味ではなく)。

自分の考えていることを外に向かって書くということは、ただ自分の中で考えているだけとは頭の使い方が変わってくる。現に、ブログを書き出して間もないけど、何本か書いてみた後は最近感じたことのない種類の疲労感があった。それが原因かどうかわからないが、奇妙な夢を何日か続けて見ることになった。

ある程度の負荷なくしては変化は訪れないだろう。とにかく思ったことを外に向かって書き出してみることで頭の中も整理され、それに伴い自分の思わぬところに変化が訪れるかもしれないと考えている。もしかしたら、なにか自分の中に蓋をされていたものが開くことがあるかもしれない。

ただ、僕には最近のブログみたいなスタイルでは書けないだろうと思ったので、古臭いスタイルかもしれないが朴訥でもいいから自分なりのブログを作ってみようと思ったのだ。そして僕は朴訥な表現をする人が好きだ。

ブログを書いていく上で、どうしても自分の弱い部分と向き合わざるを得なくなる。自分の弱い部分と向き合うということは普段の生活でも大事なことだろうと思うが、なかなか立ち止まらなければ意識して考えるのは難しい。

どこかのインタビューで読んだが、アメリカ人のミュージシャンのジョン・グラントが(今年3月の東京キネマ倶楽部でのライブは最高だった!)、表現する上でステージ上で自分の弱い部分をさらけ出せるようになってきた、ということを言っていた。

何かを外に向かって表現するということは、逆に自分と向き合う作業も必要であるということだ。時にはそれはとても辛いことでもある。自分に正直に向き合うということは、変えようのない自分自身にぶつかるということでもあるからだ。

もちろん、いつもいつも自分と向き合っていたら疲弊してしまうだろうし、弱い部分をとにかくさらけ出せば良いというわけでもないが、生きて行く上で何かしら「おかしいぞ?」と思う時や、どうも上手くいかない、という時は自分と向き合う必要が出てきた時なのかなと思っている。

何年か前から、ヨガのDVDを見ながら15分だけヨガのまねごとをする(ちゃんとは出来てないと思う)ということをやっているんだけど、調子がよくなっている時はそれがほぼ毎日続けられる。

ところが仕事が忙しかったり、気にかかること、早くやってしまいたいことなどを抱えているとき、そういう焦りがある時はやらない期間が続いてしまう。今日はいいか、やることもあるし、面倒くさいな、と思うと一日やらなくなり、二日、三日、一週間…と、どんどんやらない期間が続いてしまう。

15分だけのまねごととは言え、ヨガをやるのは体も頭もスッキリする。やれば調子が良くなるということは頭ではわかっているのに、焦りのスパイラルに入ると、そんなことやってる場合じゃないなと思ってしまう。これも弱さのひとつなんだろう。

そんなことをやってる場合じゃないな、と思って焦っている時こそ、それをやるべきなのかもしれない、ということを思ったりする。ブログなんて時間の無駄かもしれないとも思うこともある。でも、きっと自分自身に何かしら影響はあるだろう。大丈夫。

意識の変化というものは何かを表現する者にはとても大事なことだと思う。僕はそこでも自分に嘘をつかないことに決めた。どんなに人から馬鹿みたい見えようとも、そう、僕はやっぱり何かしらの表現がしたかったのだ。ブログを始めたのもその一環だ。

もう少し役に立つブログをやればよかったんだろうけど、残念ながら僕は役に立たないことも好きだ。そして役に立たないことも大いに必要だと思っている。