感覚派であること

rat and pedal

いろいろ考えながら、考えていることをなるべくきちんと言葉に出来るようにと思ってこのブログを書いているけど、僕はもともと理屈とか理論というものが苦手で、どちらかといえば感覚派だと思う。

理路整然と説明することがとても苦手なので、僕の文章自体、何が言いたいのかわからないと思う人もいるかもしれない。

思えば、ずっと感覚で生きてきた気がする。

数字もすごく苦手で、数学なんていうものをやる意味がわからなかった。ギターを覚えるのも、理論なんかまったく勉強しないで、とにかく耳で聴いて弾きながら覚えた。

絵も勉強なんかしたことなかったから、イラストレーターというものを意識しだした時に、さすがに基本的な理論は勉強しないとまずいなと思って、本で学んだ。

実際に何かを作ったり、絵を描いたり、ギターを弾いたりという時に、理論が先に頭に出てくることがない。というか、理論で考え始めることができない。イメージが先に出てきて、それに後付けで理屈を見つけていくという感じ。理論を勉強しても後でスーッと頭から抜けて行ってしまう。

でもある時、何かをきちんと説明できないと、それは何も考えてないと思われるのではないか?という考えが頭をよぎった。説明するということを自分なりに頑張ってもみたりした。

だけど、後付けの理論で説明していくと、僕の場合は変に理屈っぽいのに伝わりにくいということに気がついた。やっぱり僕は理論には向いてないのかもしれない。

きちんと理論立てて説明できる人をとても尊敬する。それができないので、僕は何かを教える立場にはなれないと思う。何かをレクチャーするブログなどもおそらく向いてないだろう。

あまり関係ないかも話かもしれないが、思い出したこと。

かなり昔に、たしか高円寺にある服屋さんでTシャツを選んでいて、いろいろ手にとって広げて見ていた。そうしたら、店員がいろいろと口を挟んで説明してきたので(僕はあまり店員に口を挟まれるのは好きじゃない)、適当に相槌を打っていた。

おそらくは客の好みの傾向を見ながらいろいろ説明していたんだと思うけど、Tシャツを手に取るたびに説明された。そして、ある一枚を手にとった瞬間、

「それを手に取られたら、もうわかんないですね」

と言われた。たぶんその店員のカテゴリー分けに、僕の選ぶTシャツが含まれなかったんだろう。あるいは僕が統一感のない選び方をしていたのかもしれない。でも、自分は自分の感覚で見ていただけなので、そっちの理屈は知らねえよと思った。

結局、そんなことを言われてあまり気分もよくないので、何も買わずに出てきた。ちょっとした出来事だったような気がしたけど、ずっと覚えているということは心に引っかかっているのかもしれない。

よく考えて見れば、自分の中で感覚でつながってることが、他人の理論や理屈ではつながっていない、ということがちょくちょくあった気がする。僕にとってはそれが悩みの種でもあった。

いろいろ考えた末、やっぱり不得意なことに悩むよりは、自分の感覚でものを作っていこうと決心した。自分の中の感覚でものを作っていけば、何かしら共通の芯がある全体像が生まれるんじゃないかと思った。

そう考えると、少し気分が楽になった。そういう気持ちでものづくりをやっていこうと心から思えたのだった。自分ができることをやるというのはなんて素晴らしい感覚なんだろう。そしてきっと自分にあったやり方のほうが、長い目で見れば良い方向に行くだろうと信じている。

イラストレーターの活動としては正解ではないかもしれないが、自分なりのやり方を探していこうと思った。正解は自分で見つけなければいけない。そういう自分のあり方をどう消化して、どう発信してくかが当面の課題だ。

そして音楽は僕の感覚活動の中心である。誰がなんと言おうと僕はこれを続けて行くだろう。

人から見ればバラバラなことをやっているように見えるかもしれないが、自分としてはひとつの事を掘り下げているつもりなのである。

内面は誰にでも開く可能性がある

telecaster

時々、イギリスの階級制度を考える。それはイギリスの音楽を聴くから意識してしまうことであって、特に普段は意識しない。イギリスの音楽にはそういう意識が色濃く出ている場合が多いように思う。

二十年前ぐらいに初めてRadioheadの”The Bends”を聴いた時に、彼らは中産階級の出身だということを知って、イギリスの階級制度というものをを初めて意識した。

その後、Manic Street Preachersを聴くようになって、彼らは労働者階級の出身だということを知った。彼らの曲は労働者階級を意識した曲が多かった。

でもまだ全然ピンと来なかった。階級ってなんだ?とぼんやりと思うぐらいにすぎなかった。どの階級の出身かということが、バンド同士の対立の原因のひとつになっていたりすると、少し不思議に思った。

何年か前にも、原因はよく分からないが、Manic Street Preachersのベーシストのニッキー・ワイアーが、Radioheadのギタリストのエド・オブライエンを罵倒したという記事を見た。その時の言葉の中に「寄宿学校に戻るんだな」ってセリフがあったらしいけど、寄宿学校っていわゆる育ちの良い人が通う学校らしい。バリバリに階級を意識している。もしくはファンへのポーズも含まれているのかもしれない。

僕はどっちのバンドも好きなので、こういうニュースはちょっと悲しくなってしまう。ただ、世界で一番好きなバンドを挙げるとしたら、間違いなくRadioheadなんだけど。

日本はといえば、昔は一億総中流ということが言われていたし、階級を意識することはあまりないと言われる。確かに、大人になるまで階級みたいなことを意識したことなんてなかった(今の時代は違いますかね)。だからイギリスの中産階級と日本で言われている中流という意味の違いがよくわからなかった。Radioheadの中産階級出身であることの苦悩や罪悪感というのもよくわからなかった。

大人になって、さて、と考えてみて、単純に日本に当てはめられるとは思わないが、僕は間違いなく労働者階級だろうと思った。自分を含めて身内で大学に行ったという人も知らない。もし自分がイギリス出身だったとしたらRadioheadを支持しづらい立場だったんだろうか?その辺はよく分からない。

こういう話をするのが難しいのは、単純にひがみを言っていると思われがちな所だ。そんなことを気にしたってしょうがないとか、そんなことは人生に関係ない、みたいな話になってしまう。そういう話じゃなくて、自分が労働者階級的だということをどうこう言いたいわけではなく、ただそうだという話。外の文化を知ることで自分の属する文化、置かれている状況を相対的に知るという要素があるかもしれない。

だから単純に立場だけ考えれば、僕が心理的に肩入れしやすいのはManic Street Preachersの方になるが、僕は労働者階級出身だからManicsを好きだというわけじゃなくて、表現に惹かれるものがあるし、その音楽が好きだから好きなのだ。

とは言え、そういう心情に寄り添った曲にも共感できる。”A Design for Life(人生設計)”という曲はこう歌っている。

俺たちは愛について議論したりはしない
泥酔できさえすりゃいいのさ
俺たちにはどんな浪費も許されてないし
これが最終地だということも言い渡されている

Manic Street Preachers — “A Design for life”(和訳)

この歌詞に続いてA Design for Lifeという言葉をリフレインすることで、人生設計など無いという皮肉を歌っているように思う。これを大声で歌いたくなる気持ちは共感できる。

しかし、同様のテーマで、”The Masses Against The Classes”という曲がある。直訳は「労働者階級対上流階級」という露骨なタイトル。

この曲も好きなんだけども、メッセージ性として上流階級に対立するということに僕は心情的に入っていけない。僕はイギリス人ではないので共感しきれないのは当然といえば当然なんだけど、対立からは距離を置きたくなってしまう。共通の敵を作って対立によって団結を深める図式に感じられるからか、僕にはどうもコミットしきれないものがある。

僕は自分の立場を表明したり、何かに属しているという意識が苦手なのかもしれない。そういうものに沿って考えるよりも、自分自身を内面的に掘り下げていきたいと考えてしまう。だからなのか、内省に満ちた”This is my truth tell me yours”が個人的に非常に好きなアルバム。

僕は団結による共感よりも、内面を掘り下げた所の深いところでつながる共感の方にどうしても惹かれてしまう。

自分は分不相応なことをしたり考えたりしているんじゃないだろうか、という意識が頭をよぎることはあるが、内面はどこに属していようが誰にでも開く可能性がある、なんてことを考える。内面はある意味では外面的なものよりよっぽど平等ではないだろうか。

外面的なものによって見える物事は多いけど、それだけに捉われると大事なものを見失う。外面的なものを取り払って、井戸の奥底をぞいてみれば共通の水が流れているのかもしれない。

夢の方が「本当」の現実に近かったりして

wind

ようやく治ってきたが、久しぶりに風邪をひいてしまった。うがい薬をいつからか使っているおかげか、しばらく風邪をひいていなかった。僕はいつも喉からくるので、鼻風邪というのは生まれて初めてかもしれない。鼻は思ったよりも無防備だった。

最近ではそんなに熱が出たこともないけど、子供の頃に熱が出たときにはなんとも説明できない嫌な夢をみた。

何か黒い塊のようなものが湧き上がってくるような、そして自分の体の中心をごっそり持っていかれるような感覚。物凄い音と圧力の黒い渦に呑み込まれるような、なんともいえない夢。でも、なんのためにそんな嫌な夢をみるんだろう。

最近はあまり夢を見ないけど、僕ははっきりと説明できる夢をほとんど見ない。大体はよく知らない場所にいる。知っている場所のようだけど知らない場所。知っている人のようだけど少し違う人。夢の設定も具体的に説明できない、わけのわからないものが多い。

たぶん僕の夢は感覚的な夢なんだろうと思う。感覚、感情のようなものが残るんだけど、それをぴったり当てはまる言葉にすることができない。見た夢を、うちの奥さんに説明しようとするんだけど、言っているそばからどうも違う気がしてしまう。

その点、うちの奥さんの夢はとてもシンプルらしい。昼間考えていたことがそのまま出てきたりするらしいので、そういうのはちょっとうらやましく思う。

夢には無意識が関わっているというけど、僕の夢は掴み所が難しい。だからその掴み所のない夢の感情を頼りに、自分の無意識を探ってみたりもする。

そうしてみると、どうも自分の中の奥に押し込めている感情が夢の中に出てくることが多いらしい。夢の中では抑制は効かないし、夢の中では自分にうそはつけないのだ。

逆に言えば、現実世界では自分を抑えることもあるし、無意識的に自分にうそをつくこともある。

そういう見方で見てみると、現実世界で生きる道しるべを夢が示してくれるということが大いにあると思う。自分の中の本当の気持ちと、抑制している部分を照らし合わせることができるわけだから。

熱があるときの夢はどうなんだろう。その黒い渦のような夢は人間の無意識の中の宇宙のような、見てはいけないダークサイドの部分だったりするんだろうか。熱のあるときだけ抑制が外れて、その片鱗に触れることができる…とか。

以前ブラタモリの比叡山の回で、お坊さんがお経を唱えながらお堂の中をぐるぐる回るという修行を三ヶ月やるというのを見て、なんのためにこんなことをやるんだろうと思ったんだけど、もしかしたら人間の思考の枠組みを外すっていうことが大きいのかもしれない。

お坊さんの悟りはダークサイドと違うかもしれないけど、人間が普段は見ることの出来ないものを見ようとするということが共通するとしたら、夢の中ではすごいことが起こっているんじゃないだろうか。もしかしたら夢の方が「本当」の現実に近かったりして…。

人間の固定観念は大人になるにつれて強固になっていくので、子供が大人の視点では見えない物が見えるというのは納得がいく。夢の中で子供になれるわけではないけど。

絵を描く練習で、逆さまにしたものを描くということをやったことがあるけど、これも人間の思考の枠組みを外す練習ということなんだろう。

人間は固定観念に縛られて生きている。固定観念なしには生きられないけど、縛られすぎれば窮屈だ。外しすぎればわけがわからなくなる。やっぱりバランスが難しい。

だから僕らは夢と現実を行ったり来たりするのかなと思ったりもする。